神秘の章
2004年4月23日 金曜日「NK細胞の力」
最初にお断りしておきますがコラムを書くぞ!という試みになりましたが、更新は不定期です。それに片寄った個人的意見が多くなると思いますので、不快感をもたれる方もたくさんおられるかも知れません。その場合、読むのをおやめになるか、このコーナーには立ち入らないといった防御策をおすすめします。決して電話、メールなどで論戦を挑まれないようお願い申し上げます。

 この間、「外科免疫」という題目で講義するためにいろいろ調べていたが、いまさらながら生体の免疫機構というものの精巧さにはほとほと感心したしだいだ。ありとあらゆる外部の異物を感知し排除する、異物の増殖を止める、まあ免疫がそれをしてくれないと、私どもは数日も生きてはいないのだから当たり前なのだが。

 さて、その免疫細胞の一つでNK細胞というのをご存じだろうか。この「NK」はナチュラル・キラーの頭文字で一匹狼の殺し屋細胞のことである。普通、異物を攻撃する主力の細胞はキラーT細胞といい、いろいろ複雑な機構を経て他の細胞の命令を受けて整然とアタックする。軍隊で言えば士官に率いられた一個中隊が敵を攻める図に近い。ところがこのNKは浪士取り締まりの新選組よろしく、命令も受けずあやしいやからは片っ端から斬りつけて、斬りつけるとその血のにおいでさらに興奮するというアブナイ動きをするが体にとってはたいへん頼もしい護衛者である。

 そして、もっともうれしいことに、ガン免疫でも大きな役割をしている。もともと自分の細胞が突然変異したガンは異物とはなかなか判断しにくいので、大きくなるまで増殖を許してしまうことが多いが、このNKは鼻がきくものだから、小さい内にガンに出会えば殺してくれる確率も高い。ガン免疫という意味でまことに頼もしい守護神だ。
 だが、このNKはストレスに非常に弱いことが知られている。つよいストレス下に置かれると動きも殺戮能力もダウンする。この能力のことを活性(かっせい)という用語を使う。逆にストレスを発散する行為でNK活性は上がることがわかっている。特に笑うことはよいそうだ。まさに笑う門には福来たるである。

 かなり前になるが阪神大震災後、仮設住宅などで暮らすことを余儀なくされつよいストレス下におかれた人々にガン発生率の上昇を見たそうだ。ガンにはさまざまな要因があるが、これなぞはNK活性の低下が原因であることは十分に考えられる。さて、このようにおっかないストレスを数量化してどれくらいのダメージをくらったのか知り得ないか?また、ランキングできないか?という試みがあって、それはすでにストレス指数表として医療界では出回っていて常識となっている。
 これによると最大のストレスとは「配偶者の死別」だそうだ。妻に先立たれた夫が長生きできないのはNK活性の低下で証明できそうだが、その反対=夫に先立たれた妻が早死にする=が成り立たないことも証明されている。一体なぜ?・・・・これは医学の問題ではどうもなさそうである。


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2004年5月10日月曜日「遺伝子の守護神」

 「遺伝」と「遺伝子」という言葉はかなり誤解を受けているかも知れない。
 たとえば、「ガンは遺伝子の病気」だと私達が言うと皆さんはすぐに「ああ、親もガンだったからなぁ。オレもあぶないのか」と落胆なさるだろう。ある一面では間違ってはいないが、落胆するのは間違っている。
 結論から言うと「遺伝するガンはその中でごくごく一部、特殊なガンである」が正しい。

 つまり、ほとんどすべて、ガンは遺伝しない、と言っていい。
 もともと英語でのgene(遺伝子)heredity(遺伝)の二つの単語には原語では共通点はなく、日本語に訳した時、非常に似通った語になったのが誤解の原因なのではないか。

 遺伝子の中には体のありとあらゆる情報がつまっている。
 あなたの遺伝子はあなたの大百科事典と言っても過言ではない。その細胞がどのような役割を果たすべきかが詳しく書き込まれている。「心臓」なら心筋細胞に育って死ぬまで動き続けること、膵臓のある細胞なら「死ぬまでインスリンを作り続けること」などである。

 ガンになってしまう、という情報は実は存在しなくて、遺伝子のコピーする時のミスが問題になってくる。
 細胞は働き続けるとやがて老化して死ぬ、それまでに自分と同じ働き者のコピーを作らなくてはならないのも仕事の一つ。だが、コピーは簡単そうで、かなりの確率でミスコピーをする。原因はいろいろあるが、一例では紫外線を当てると遺伝子にとって強力なミスコピーの原因となる。
 ミスコピーで生まれた細胞はすべてガン細胞と考えていい。
「え!じゃあ肌を焼くとガンになる?」その通りである。余談だが、お金を払ってまでも私は肌を焼く気がしない。
 しかし、遺伝子には守護神がいて、このような細胞を見つけると、まず修復を試みる。やられたと思われるパーツを切り離して、もう一度リセットをかけるが、それでも修復不能な細胞には死を命じる。これはアトポーシスと呼ばれる細胞の自殺だ。しかし、このミスコピーの修正がなされなかった細胞で自殺さえ免れてしまったものはガン細胞の卵として同じコピーを作り始める。そう「ガン」とは遺伝子の管理下において制御不能な暴走細胞の総称である。

 おわかりの通り、あなたが肌を焼いて剥けた皮は死を命じられて脱落し、ガン化を免れたというわけだ。これで肌に限っては一安心である。だが実は守護神も遺伝子の中にいる。強力な遺伝子毒は守護神にも襲いかかる。
 もし守護神がやられたら?そう、これはかなりまずい状況である。だが、細胞は二重三重のガードがかけてある。メインの守護神以外にも効率は悪いがなんとか自然死まで誘導してくれる二軍選手もいるし、なによりもこれらの修復者たち(遺伝子学では本当にガーディアン=守護神と呼んでいる)はジェット機が同時に二台のエンジンが止まらないと墜落しないように遺伝子も対になっている二つの場所が両方ともやられないと死なないのである。こうして、守護神たちは日々生まれるミスコピー細胞を退治してくれている。

 守護神たちの最重要本部は6〜7ポイントに散らばってあるのがわかっていて、もちろんすべてやられていると(対になっているから倍の12〜14ポイントカ所ある)その細胞は歯止めを失って暴走する。ミスコピーを受けた場合、ガン化が始まってしてしまうのだ。さて、対になっている二つの内、生まれながらにして一つ失っているとどうなるか?これが「ガンになりやすさ」の正体である。つまり守護神の本部を遺伝子毒が直撃したばあい、二つとももっている人は残りがあるため、びくともしない。だが、一つだけの人は即守護神を失ってしまうのだ。これは大きな違いである。遺伝子毒は紫外線の他、薬剤、化学物質ごまんとある。胃などでは高濃度の塩もよくない。リスクの高い毒にさらされるたび、持ちポイントは減っていく。6ポイント(すべてに片肺飛行の人)は12ポイント(すべて二つ正常な人)の人と比べて、ガン化に関してかなりのハンディなりやすさがあるのはおわかりだろうか。12ポイントの人は相当無理しないと(?)ガンにならないのである。ヘビースモーカーの心のよりどころの人はこの12ポイントの人だろう。どんなにタバコを吸ってもガンにならない人がいる、といって吸い続けるのだから。さて、もともとあなたは何ポイントの持ち点だろうか?

 12ポイントのヘビースモーカーの夫に6ポイントの吸わない妻がいたとしよう。どんなに気をつけていても、この奥さんはダンナさんのタバコのお流れで肺ガンになってしまうのだ。これは悲劇である。このポイントはある程度だけ遺伝する、がそれはランダムに近い。(ただし6ポイント同士の夫婦からは12ポイントの子供はさすがに生まれにくい)受け継ぐポイントは違っても家庭環境、食事環境は家族ではほぼ等しい。ポイント減の要素は同じだから、ずっと同じ屋根の下で暮らしていると同じような部位のガンが遺伝するように見えるわけだ。

 この恐怖のポイント、実はすべての人が調べてわかる時代がもう来ている。最近では解析が進んでいて、遺伝子そのものではないがその周辺の情報を調べて、「あなたは何年後に何ガンにかかる確率は何%」とビジネスにもなっている。年金の不払いかどうかが大事な個人情報ではなくこの方がよっぽど人に知られたくない情報でないだろうか。しかし、先のヘビースモーカーの夫は妻が危険だとわかれば、本当に愛情があればタバコをやめるだろうし、そうでなければ吸い続けてガンに罹らせ・・・近未来ミステリ小説に完全犯罪のトリックとして登場する日も近いかも・・・それは冗談として、私個人としては明日の天気もまともにあたらないのにそれはないだろうと叫びたいのが本当のところだ。


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2004年5月30日日曜日「ウイルスと細菌」
 診療しているとなかなか説明することがやっかいな場合がある。数多くあるがその中でも筆頭的なことがらが「細菌とウイルス」である。この場合は抗生剤が効くしこれはダメというわかりにくい分類でもある。なんで感染症と言いながら抗生剤を処方してくれないの?という問いももっともである。
 細菌(バクテリア)とウイルスはかなりの違いがあるが、皆さんは割とごっちゃにしておられないだろうか。
 どちらも人間にとってありがたくはない生き物だが、私どもからいうと全く違うものとなる。その二つ(実はそれ以外にもまだ分類されないものもあるのだが)は共に私達の体の中で大暴れした状態を共通に「感染症」と呼ぶのでますますこんぐらがる。また肺炎の原因で多いインフルエンザ菌とあの冬にはやるインフルエンザウイルスという兄弟みたいな名称だが全く関係ないものもあるし、皆さんにわかりやすく説明するのはとても至難である。

 黄熱病の研究で病魔と差し違えてしまった野口英世博士は最期まで顕微鏡を手放さず、「私にはわからない」と言って亡くなった。黄熱病の「原因菌」を追求していたので無念の戦死といえよう。しかし、感染しなかったとしても残念ながら彼には一生突き止めることはできなかったに違いない。黄熱病はウイルス感染症だからである。ウイルスは顕微鏡などでは見ることができないくらい小さい。顕微鏡を武器に細菌を追いかけ続けた野口にとっては酷だが、それほどウイルスはとらえにくい。

 ちょっとむずかしい話にはなるが生物(いきもの)とは「自己増殖する能力」「エネルギーを変換する能力」「常に同じ状態を自分で保てる能力」の3つを備えたものを言う。だから、どんなにうまく作られていてもアシモ君は生き物ではない。人間の細胞は「自分で分裂し、細胞内でエネルギーを変換(ミトコンドリアで)し、生と死を繰り返して同じ状態を保つ(臓器)」なのでいきものということになる。もちろんいきものが集まった状態のヒトはいきものであることは言うまでもない。
 細菌はこの条件を満たしているので生き物ということになる。そして、細菌は細胞壁という人間の細胞にはない「よろい」をもっている。体に入った細菌はこのよろいで安全に動き回り栄養をちゃっかりいただいてどんどん増殖する。TVなどの映像でおなじみの、うようようごめいてあっという間にたくさんになるあれである。しかし、その細胞壁、よろいだけを壊す薬を開発すれば人間を傷つけずに細菌だけやっつけられるという理想的な薬ができる。そうして生まれたのがおなじみの抗生物質である。

 さて、ウイルスは自分で増殖できない。だからいきものではない、とも言える。どうやって自分の勢力を増やすかというとウイルスは人間の体に侵入すると私達の細胞の中に潜り込んで、なんと細胞が増殖するのに必要な遺伝子を書き換えて自分の情報を細胞に入れてしまう。それと気づかず感染した細胞はせっせとウイルスのコピーを作り出してしまい、あっという間に何百何千倍に増える。増えたウイルスは細胞を飛び出しまたそれぞれの違う細胞に潜り込んであとはネズミ算式だ。なんのことはない「遺伝子組み換え」という技はこのウイルスの性質を利用したものだ。ただそれを役立つ書き換えか迷惑な書き換えかで(組み替え)(感染)と名称が変わるだけである。飛び出したウイルスはさまざまに悪いしわざをするが、そのうち免疫細胞が大量の抗体(迎撃ミサイルみたいなものだ)を作り出してやっと感染は退治できる。どうしても後手に回るのでそれまで熱をだしたり全身が痛かったり苦しまなくてはならない。もちろん細胞壁などは持たないから抗生物質はまるで効かないことになる。

 カンのよい方はお気づきになると思うが、したがってウイルスを殺すという薬があるとしたら、危険なことに自分の細胞を攻撃しなくてはならないことになるのだ。非常に副作用が大きく使いにくい。だからウイルスの特効薬というのはなかなかむずかしいわけである。「あれインフルエンザの特効薬ってあったじゃない」と思われるだろう。
 確かにそうだが、このインフルエンザウイルスはある酵素を使って細胞から飛び出す能力を持っている。これは他のウイルスにはなくインフルエンザ特有の能力だということだ(能力というかクセと理解した方が早い)。特効薬はこの酵素をブロックするのだ。したがって、感染したウイルスを封じ込めてしまい、増殖は細胞の中だけに閉じこめられたままになる。そのうち異変に気づいた免疫細胞が感染細胞を処分してくれるというわけだ。この薬は迎撃ミサイルではないから感染細胞が少ない初期の状態のみ効果を発揮する。48時間以内に飲まないと効果がないのはこのためだ。またインフルエンザ以外はこの酵素を使わないため、他のウイルスには効かないわけだ。そしてクセのないウイルスには特効薬がない、ということになる。

 カゼと言われる急性上気道炎はほぼ9割方カゼウイルスで引きおこされる。(残りの1割が溶連菌感染症などの細菌感染症だ)したがって特効薬は存在しない。真性のカゼには抗生物質は効かないのだ。ウイルスは効かない、細菌には効く、これだけを覚えておいていただければ私どもが出したり出さなかったりする抗生物質の使いどころのシチュエーションはご理解されるとおもうのだが。


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2004年6月15日火曜日「卵とコレステロール(上)」
 「悪行は石に刻まれる」という慣用句があるが、一度悪い噂がたつと打ち消すのに大変な労力がいるのはよくあることである。

 医学界にも強烈な悪いイメージがあるわけでもないが、似たようなことがある。
 皆さんがよく知っている医学常識に「コレステロールは体に悪く、卵、特に黄身を食べるとコレステロールを上昇させる」というものをお聞きになったことはないだろうか。
 どういうわけかコレステロールは悪の権化のようにいわれ続け、他の医学用語はともかくこの物質を知らない国民はいないといっても過言ではない。そして卵は確かに高コレステロール食品でうっかり2つ食べてしまうと一日必要摂取量を大幅に超えてしまうから、おっかないという気持ちはわかる。しかし、この「コレステロールと卵の常識」を満足させる信用のおける医学論文はないといっていい。では、なぜこの俗信が世の中にひろまってしまったのだろうか。

 今から90年以上前、米国では肉や卵食が主なので、ある研究論文が発表されたとき衝撃が走った。当時米国の死亡原因のトップである心筋梗塞と密接な関係にある血中コレステロールは果たして卵食と関係があるかどうかを突き止めるために、ウサギをつかって毎日卵黄を食べさせて実験した。すると、ほとんどすべてのウサギの血中コレステロール値が激増し、動脈硬化症になった。どうやら卵黄はコレステロールの固まりらしいとインプットされたようだ。
 それから30年ほどのち、ヒトのコレステロール値の上昇と心筋梗塞の関連を調べたところ非常に強い相関が認められたと研究発表があった。
 そこで三段論法が成り立った。「卵を食べるとコレステロールが上がる」→「コレステロールは心臓によくない」→「卵は心臓によくない」
 とのことで米国でも卵の個人消費量が激減した。今信じられている説はこの数十年前同士ののタッグ論文がベースになっている。

 さて、この大前提がそもそも間違っていることにお気づきだろうか?
 ウサギは草食動物で卵を食べる習慣も体も持っていない。したがって、無理やり入ってくる過剰なコレステロールを分解したり代謝したり排泄したりする機能がない。
 従って、体中コレステロールまみれになって当然である。もっとも、ウサギとヒトの実験の結果を一緒に考えること自体全く無理があるのだが。では肉食雑食動物でなぜ実験しなかったのだろうか?と疑問を感じることと思う。その答えは簡単である。「実験は肉食雑食動物でも行われたが、卵とコレステロールの関係が明らかにならなかった」ので有名にならなかっただけだ。
 
 どんな実験でも、「〜にならなかった」という結果より、ショッキングな結末の方が拡がりやすい。
 ましてやその当時「ウイドウ・メイカー(未亡人作成者=心筋梗塞は中老年の男性に圧倒的に多く、助かる人も少なかったため、かかると未亡人を作る)」と怖れられた病気に関わることである。悪いウワサ同様、恐怖の三段論法はあっという間の拡散したことだろう。かくして肉食本場のアメリカで卵狩りが始まった。今も昔もアメリカのすることすべて正義である(笑)と信じる日本国民も右にならえ、というわけで日本でも常識となってしまった。

 が、さて、卵摂取を減らすことで心筋梗塞は少なくなっただろうか?

 実は全く減らなかったのだ。
 それどころか年次増加の一途をたどるばかりなのでヒトでも勇気ある(?)実験者が卵を食べさせ続けたらどうなるかの論文が次々に発表された。
 一部の論文をのぞいては50数本すべて「卵摂取と血中コレステロール上昇の関係はない」と結論づけられている。一部とは病的に高いコレステロール血症の患者に限っては関連はあるのでは、という意見で、一般の方、ましてや少しだけコレステロールが高い人くらいが卵を食べたところで全く心配はない、ということになった。

 コレステロールは実は体にとって非常に大切な物質でホルモンや消化液を作る、血管の弾力性を保つ材料などとなり、欠くことはできないので食事で取り入れる量の約4倍強を体内で作り出している。
 卵など懸命に食べないとしてコレステロールを下げようと頑張ったところで、体はあなたの努力とは別に足りない分はせっせと作ってしまうのだ。まさに親の心子知らずである(笑)。
 ではオーバーする分はどうなる?この場合は代謝が正常なら体内でコレステロールを作るのをさぼるのでやはり血液の中のコレステロールは一定になる。

 それでは卵はいくらたべても、食べ物はなんでもいいの?ということになるがそうではない。糖尿病と同じく総量規制はもちろんある。ここでは詳しくは述べないが「ほどほど」ならなんでもいいのだ。私が特に強調したいのは「コレステロールが怖くて卵を食べないのは愚の骨頂。卵は完全栄養食なのだから」ということである。・・・(下)に続く・・・
2004年6月18日金曜日「卵とコレステロール(下)
 卵、特に卵黄はたった一個の受精卵が21日間でひよこになるまで育つのに必要な栄養素を備えている。
 文字通り完全栄養食である。卵にきわめて多く含まれているコレステロールは赤ちゃんの飲む粉ミルクにも加えられていることからもわかるようにヒトの成長にも不可欠なものである。成長が終わった成人では必要ないんでないの?と自然な疑問を呈することかと思う。
 が、最近の研究では、コレステロールを低くしすぎると癌死が増えるという結果も報告されており、高くても低くてもどっちに転んでもいい目はあまりない。

 また卵はタンパク質も非常に豊富で、体内では作られることのない必須アミノ酸をふんだんに含むので「良質タンパク源」であり、ビタミンAも多量に含んでいる。そして、卵に多く含まれるレシチンは血管壁についたコレステロールを除去する働きがある。

 そうはいっても卵は怖い、もともと高い上にさらに食べていいの?と懐疑的なあなたは言うかも知れない。

 そもそもあなたがコレステロール値が高いとして、それが血管の内側にどろどろこびりつき脳梗塞や心筋梗塞になってしまう条件はふたつ満たさなくてはならない。LDLコレステロールが高いこと、活性酸素があることである。LDLはいわゆる悪玉コレステロールと言われ単独では悪さはしないが、血管壁や血液内で「活性酸素」が発生する状況において初めて湯ドロのようにはりつく。
 活性酸素はさまざまな細胞活動で放出されるいわば排ガスで、これを除去しないと細胞が自らの排気で死んでしまう。それを除去してくれる物質をスカベンジャーと呼んでいるがその種類はきっと皆さんがよく知っている名前ばかりである。
 βカロチン、ポリフェノール、グルタチオン、ビタミンC、E、などである。やたら健康食品にこれらの名前があげられることだと思うが、その正体は活性酸素を除去するのが主目的なのである。

 コレステロールがほんの少しだけ高い方、薬なんか飲みたくない一心で「卵断ち」すれば下がるかしら?とお思いの方もいらっしゃると思う。
 もし、あなたが肥満体型ならば卵などにこだわらず、しっかり糖尿病のようなバランスのよい食事療法をする、心配なら上記のスカベンジャーを食事に取り入れて欲しい。それのみで、気になるコレステロールは確実に下がる。逆に卵などの完全栄養食を積極的に食べることは好ましいことだ。結論から言うとお好きなら、卵を断つ必要はないのだ。好きなものを我慢すること、これがどれほどのストレスになり活性酸素を発生させることか。

 ただ、物事には必ず例外がある。
 あなたが平均体重前後の体型で、血縁の家族もコレステロールが高い、LDLが180以上あるなどの要素の方は「体内でコレステロールを代謝する能力に欠陥がある」と考え、やはり卵を含めた高コレステロール食品は控えるべきであろう。この場合はすみやかにきちんと薬物療法の指導を受けるべきだ。

 このようなことくらいはネットでこのコーナーにおいでの方はすべてご存じであろう。ネットにはいろんな情報が飛び交っているが、(ガセネタも多いが)便利なもので検索エンジンで「卵」「コレステロール」とひけば、私が述べたような肯定的な意見があふれかえっている。それでもなお、世間に広まってしまった俗説はくつがえしがたい。
 かくして、今日も外来でコレステロールがわずか高い人からにもがっかりした顔で「卵はいけないんでしょう?」と聞かれるはめになるのだ。私はLDLが高くないかデータを見ながら、「お好きならば全く問題ないばかりか一日一個くらいは食べるべきですよ」と話している。

 昔読んだ星新一のショートショートにこういう筋立てのがあった。

 古代に存在したある長寿村で発掘が進み「長寿の秘法」が記された古文書が発見された。そして懸命の努力の末、解読されたというので、大発見をした博士を招いた。これで長寿を手に入れられるとばかりにマスコミは勢い込むが博士はどうも歯切れが悪い。
 さんざん言いよどんだあげく、こうつぶやいた。
 「解読しますと古代長寿の秘法とは『早寝早起き腹八分』です」

 これがオチだったのだが、「それができりゃ、世話ねーよ」と中学時代のそのときは思った。が、今は違う。心底「古代の秘法」はスグレモノだなぁ、と思っている。早寝早起きはストレスない生活だ、好きなものを我慢せず、まんべんなく少しずつ食べ、この飽食の時代決して満腹にしない(それがストレスならもう何も言えないが)のが、月並みだが真の健康秘法ではないだろうか。

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2004年10月8日金曜日「人を見て法を説け」
 古代中国の漢の高祖劉邦(りゅうほう)が秦を打倒して始めて秦の都に入ったときのことである。
 「法は三章のみ」
 と宣言した。これを聞いた民衆はどよめき新しい支配者である劉邦になつき、進駐軍政策は成功した。
 それまでの秦という国はまれに見る「法治国家」だったのである。住民を法律でがんじがらめにしばり、少しの自由も認めず、膨大な法律のどこかに抵触するだけで重罪が科せられた。
 劉邦はそれを全部撤廃して、
 「人をあやめたら死刑、傷つけるもの、盗むものはそれ相応に罰する」
 の三つの掟のみとしたから住民が驚喜したのだ。今までどんなことをしても法律に引っかかるような国だったから、このとき住民が味わった開放感がどれだけのものかというのは想像に難くない。漢帝国400年の基礎を作った劉邦の人柄の一端を伝える逸話である。

 落合監督率いる中日ドラゴンズが優勝した。巨大戦力の巨人や前年度の覇者阪神を向こうに回しての快挙である。就任時、戦力の補強はしないと宣言し、自主トレを励行しキャンプでも自主性を重んじた練習内容とした。 放任主義に近いやり方である。監督が現役時代練習スタイルは「オレ流」と名付けられたほどの孤高主義であったが、プレーヤーとしても三冠王を数回獲得するなどの実力で周囲を黙らせた。その経験が生かされたのか、いわゆるガチガチの管理主義を廃しての挑戦だった。
 前任者の山田監督その流れを作った星野監督のラインが管理主義とは言わないが(家長主義か?)、今年の中日の選手たちはたづなをゆるめてくれたことによる開放感が大きかったのではないだろうか、と想像する。先に挙げた秦の住民のように統治者を慕い、監督のカリスマ性も手伝ってかチーム一丸となったようだ。
 
 6年前に横浜ベイスターズが優勝したときの権藤監督も同じような門限はなし、ミーティングもなし、「自己管理主義」で優勝に導いた。それがすべてよいとうわけではなく、たとえば前任者の体制をがらりと変えたときの反動として劇的に効く場合があるのではないだろうか。その証拠に放任主義で優勝した後の連覇は非常にむずかしいようである。落合監督も今年のリーダーシップは絶賛されるべき結果だが、真の評価は2年目以降に下されるだろう。

 人間は管理されるとストレスがたまる生物である。
 もし、人間が動物園のおりに入らなくてはならなくなったら、きっとその人は早死にしてしまうだろう。ストレスはあらゆる病気に弱く、また発癌も認められる。一方、日本では健康診断が盛んに行われている、新座市でも基本検診は40歳以上の方たちに勧めている。健康診断は医療データでもって管理下におかれ、時には指導や精密検査まで及ばざるを得ない方たちも少なくない。
 
 フィンランドでその健康診断にまつわる非常に興味深い研究があった。
 
 40歳以上の会社の管理職をつとめる今まで重大な疾患で治療されていない男性を集め、成人病検査を行い、血圧、コレステロール、喫煙、高血糖値、肥満などの項目で一つでも引っかかった1200人を対象に2つのグループを全くランダムにわけた。
 
 一方は何も指導せず、まったく放置する600人。
もう一つのグループは医師が呼び出して、チェックを受けた項目に対し、細かに指導する600人である。

 後者は5年間ずっと4ヶ月おきに医者のもとを訪れ、再びチェックを受け指導を受け直す。数ヶ月の指導で改善しなければ投薬も受け、しっかり管理された。このようなきびしい指導だったので26%(約4人に1人)はきちんとした受診ができず脱落してしまった。
 さて、その厳しい指導を乗り越えて、しかも脱落もせず医師の言うとおりに正常に近づこうと努力した人々を10年間追跡調査したらどうだったのか?ほっといた人たちと比べて、成人病で命を落とす率が下がったのだろうか?と期待してフタを開いたら全く仰天。10年間では放置した人々のほうが死亡率が低かったのだ。
 さらに15年にのばしたところ、管理下におかれた人々はさらに死亡率が上がって放置された人々に対して統計学的有意を持ってしまった。
 (統計学有意とは二つの差はたまたまではなく、仮説をたてたときに正しい確率が95%以上の時に使う言葉。この研究の場合は「成人病をほっといた人は治療しようとした人より15年では95%以上の確率で長生きである」という仮説が成り立つ)
 
 この結果をどう解釈すればよいのか。

 理由の一つにあげられたのは正常値までに引き下げようとして投薬する薬が本人の体の構造には合わなかったのではないかという仮説である。
 人は誰でも背格好から体重、性格、ライフスタイル自ずからみな違う。日頃炎天下で働く人々と、高層ビルでエアコンにあたりながら椅子から動かない人たちが同じ食事でよいとも思わないし誰もが140以下の血圧でよろしい、というのも非科学的ではないかという反省もある。そういうことを引っくるめてマイナスに働いたのではということと、与えられた薬そのものの副作用も考えられる。

  さらに、最大の要因は「ストレス」なのではないか?というのが有力な仮説である。
 この研究では管理におかれた人たちの癌死はかなり減少したものの(医療機関に通っていたので早期発見ができたためだろう)心筋梗塞死が放置群に比べ癌死の減少を差し引いてもあまりあるくらい異常に高くなっていたのだ。
 医者にああだこうだ言われ、いやな病院通いをすることによってストレスをため込み、その結果ストレスは「活性酸素」という血管にとっては猛毒を生みだし、心筋梗塞になりやすくなったのでないかと想像される。

 それでは検診を受けて病気を見つけてはいけないのか?
 いやいやそんなことは絶対にない。確かに私だって「こんなにデータが悪いとあんた死んじまうよ」って医者に言われたくない。が、病気を指摘されるのがストレスなのか、病気で苦しむのがストレスなのか、それは当人のキャラクターで決まると思う。

 あたかもコップに半分だけ残ったお酒を見て、「ああ、もう半分しかない」と嘆く悲観主義と「ああ、まだ半分もある」とよろこぶ楽天主義の差のようなものだ。
 管理下から自由になることで、実力を発揮する場合もあれば、その反対もある。
 事実、マリナーズのイチロー選手は大記録に挑むとき「プレッシャーがかかると楽しんで野球ができる」と晴れやかな顔をして、あっさり大リーグの頂点に立ってしまった。その人がプレッシャーに弱いのか、バネにするのか、われわれ医師もオーダーメードで患者さん性格を知り抜いて管理しないといけない日々がもうそこにきているようだ。

 余談だが、三国志で有名な諸葛孔明が後年同じように進駐軍となり新しい土地を治めるとき、先の劉邦の逸話をふまえた部下が「我々は進駐軍だし、高祖劉邦のように法律をゆるめましょう」と進言したら却下し、厳しい戦時法律下に住民を置いた。
 そのわけをきくと
「高祖(劉邦)は秦の法律があまりにも厳しかったのでゆるめたのだ。今、この地は賄賂が横行し治安も乱れている。こういうときこそ法律が必要なのだ」
 といい、厳格にしたところ見事に治まったという。
 
 なるほど、人を見て法を説け、とはまさにこのことだろう、この場合は孔明を見習いたいと思う。患者さん一人一人で「法」を変えていく必要があると痛感した次第である。


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2004年12月3日金曜日「フェイス・オフ」
 かつて「フェイスオフ」というハリウッド映画があった。
 ジョン・トラボルタとニコラス・ケイジが好演するアクションものだが、その中でFBI捜査官のジョンと殺人鬼ニコラスの顔を取り換える手術が出てくる。何でも爆薬だか毒薬だか忘れたが、逮捕された殺人鬼はその隠し場所をあかさず仮死状態となってしまった。そこで、殺人鬼になりすまし潜入捜査するため顔を手術して皮膚を取り換えるという何とも強引な筋であった。その後、殺人鬼が息を吹き返し脱走して大騒ぎになるのだが、ここでは取り上げない。アクションがお好きな方は「MI2」のジョン・ウー監督作品だから飽きさせない。御一見をおすすめする。
 
 さて、その荒唐無稽と思われる顔をスイッチさせる・・・
 これは以前は医学的には絵空事であった。他人の皮膚を移植すると言うことはできないと考えられてきたからだ。皮膚には各人の個別の強力な免疫細胞が埋め込まれており、他人のそれが接触するといわゆる「拒絶反応」が強く出てしまう。しかし、皮膚がなんらかの原因で(やけどが大多数だが)失われた人は一時的でも、たとえ他人の皮膚でも、かぶせておくことは利点が多い。皮膚はよろいのようなもので、臓器を細菌感染から守るための強力な城壁となっている。加えて最近の知見だが皮膚内には樹状細胞という超強力な免疫細胞が配置されており、進入した細菌を片っ端から片づけてしまうのだ。
 また、それ以上に大切さの最大の理由として、もっとも生命維持に必要である水分の蒸発を防いでいる。やけどの面積が大きいと生命を維持できないのはこの二つの理由が大きい。(昔の学習マンガには「皮膚呼吸ができなくなって死んでしまう」と書いてあった記憶があるがこれって?皮膚呼吸とは?えらみたいなものか?いまだ謎である)
 
 同種(人〜人)皮膚移植は自己皮膚移植までの防御壁になり、大変予後をよくしており、実際今までさじを投げられたほどの面積が焼けただれた大やけどの方も生還している。それがなかなかできなかった時代は豚の皮膚で代用していたのだ。(今も使うことがあります)
 さらに、最近の医学の進歩は皮膚の完全移植まで可能にさせた。言うまでもなく免疫抑制剤と顕微鏡手術の発達である。ミリ単位の血管と神経の吻合(ふんごう=つなぐこと)ができるようになったので、筋肉つきの皮膚の移植が可能になったのだ。顔面大やけどなどをおってしまった方でも移植を受ければこれで顔の表情も動かせることになる。しかし、手術を受けると全くドナーの方の顔になってしまう。あなたの顔でなくなってしまい提供された亡くなった方の顔になる!ために、これは倫理的に問題があり反対者も多い。しかし、オランダとアメリカでは「待っている患者さんがいる」とこの手術ができるよう(フェイスオフ手術だ)議会に承認書を提出しているそうだ。高度な形成外科的手技がいるのでどこでもできると言うわけにはいかないが医学は映画のレベルにやっと追いついた。

 この手術の可能性を最初に言い出したのは2002年英国の医師チームだが、死後に顔を提供することを承諾するドナーなど一人もいなかったため、いまだ需要(顔面やけどの方)と技術がありながら施行できないのだそうだ。そして、同時に行われた120人の医療関係者のアンケートでは同病院では全員ドナー拒否だったそうだ。「顔の提供」となるといくら死後でも抵抗があるだろう。まあ、そりゃそうだろわな、というのが私の正直な感想である。

 しかし、いきなり一般論に敷衍するが、医師たちは医学的知識を持ちながら、このような話題から意識的に避けているとしか思えない。というのは、医療関係者がこと移植の話になると自らの態度をあかさないのだ。それは医師のドナーカードの保持率に表れている。上の顔面移植は倫理的問題が多すぎるため極端な話だが、定着した臓器移植、いわゆる「ドナーカード」に記載されている臓器については医師自身はどう思っているのか、それを調べた専門誌のアンケート結果がある。
 結果を並べると、国立循環器センターではドナーカードを持っている医療従事者は50%。レジデント(卒業3年目くらいまでの医師)は25%。日大板橋病院では研修医11人中1名のみ保持していた。3人は「今後も持つつもりはない」と述べたそうだ。昭和大学では医師の所持率14.5%であった。秋田大学医学部5年生アンケートでは39%が保持。しかし、その中で意志までを記載していたのは17%であった。(持っている学生の半数以下)「救急医療における臓器提供の現況」という講義の後に行ったアンケートだそうだからそのカードを知らないわけはないのだ。いずれも2002〜2004年の調査だから古い意識を引きずっているものでなく、最新の医療を学習しているはずゆえなのに、である。さらに保持していても「記入していない」「臓器提供はしない」率はかなり高く、「カードを持っていて臓器提供をする」医療従事者は全体の5%を切る。

 脳死判定にはいろいろ問題のあることは私ですら承知はしている。人間が人の死を判定できることは心臓停止などの経験則でしかない。脳が死んでいて心臓が生きているなどとはどこまで突き詰めても証明できず「脳のどこかが生きているかもしれない」という疑いは最後まで残るのだ。脳死判定項目をすべて満たしていてもである。こんなことを言い出すと冤罪で死刑にしたら取り返しがつかないから死刑反対、と同じ論調になってしまうが、現在の脳死判定は納得がいかないところが多すぎるのだ。
 また、死後臓器移植についても医療側の態度に問題があるのは確かだ。死後臓器提供の意志があるとわかると治療をやめられてしまうのではないか、とか、まだ生きているうちにドナーの腎臓・膵臓などの鮮度(いやないいかただが)を保つために薬液注入する太いチューブを太ももに刺される。角膜を持っていくので眼球をまるごと摘出する。それを悲嘆にくれている遺族(まだ家族だが)に難しい文字が並んだ承諾書を突きつけてサインを要求するのだ。
 急いでいることは確かだが、もちろん、医療側に悪意などはない。そんな事務的な処理では家族との心理的なトラブルはかなりの頻度だろうと推察される。

 フェイスオフという語には「対決」という意味があり、映画のタイトルは「顔を失う」という意味とかけことばになっているが、他人事のように自らの態度は明らかにせず、仕事と割り切っている医療従事者はこの問題と真正直に向き合っているのだろうか?

 しかしながら、医療界だけでこれらの諸問題の解決は難しいだろう。法整備ももちろんだが、家族の心のケアも必要だし、この場は死後の世界を取り仕切っている宗教界もぜひ乗り出して欲しいと思っている。日本人はまれに見る宗教オンチ民族で、正月を祝い神の前で結婚し(神式)クリスマスとハローウィンを喜び(キリスト)葬式はお経をとなえる(仏教)という他民族から見たら「おまえたちは一体何を信じているんだ」と言われてもおかしくないヌエのような国民なのである。そこで大多数の国民が死後をお願いしている仏教界にぜひこの問題に取り組んで協力を願いたいところだ。
 僭越だが念仏で往生するなどとは教えず、仏教の基調である「すべては空である」「すべては因縁による」「すべては山川草木にも宿る」とでも丁寧に教えていただければ、それじゃ往生した後にでも臓器をお返ししようか、と思うのでは、とあさはかだが勝手に考えている。

 私は臓器移植法が成立した年にドナーカードを持ち、だいぶぼろっちくなったが、以来ずっと財布に入れている。家族とも話し合い、家人は脳死移植だけは勘弁してもらいたい、と言うため(これは私も同感だ)死後のみ腎膵・角膜・皮膚を提供すると意思表示している。まあ、60歳になり赤いちゃんちゃんこを着て老醜でもさらしていたらドナーは勘弁してもらおうかなと思ってはいる。もらう方もそんなポンコツはいらないでしょうしね(笑)


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2005年4月17日日曜日「量子論と医学」
 量子論入門という本を読んだ。何がなんだかさっぱりわからなかった。まるでわからないということだけはよくわかった。とすると「無知の知」というこの点だけなら私は哲学者の域に少しだけ達したことになる。
 
 量子論とは現代物理学の柱となる理論であるらしい。完全な受け売りだが、私達が何気なく使っている携帯電話・パソコンに使われる半導体の原理の主軸となる学問とのことだ。そのこと自体ユーザーとしてどうでもよい。

 テレビがどうして映るか知らなくてもいっこうに困らないのと同じだ。私は今まで物理学は理詰めの学問で一点のゆるぎもなく、公式が存在し解かれているものだと思っていた。ところが、この学問はいってみれば
「不確実性」「ゆらぎ」「虚数」
 を取り入れた不思議な理論である。分子レベルで自然界に起こる不可解な実験結果を今までの物理学ではどうしても説明することができず、それを成り立たせるために無理矢理ありうべからず公式をひねり出した、としか、理学のしろうとからは見えない。立派な物理学者には悪いが私から見たら我田引水、牽強付会とでも言ってしまおうか。

 その点、物理学のもう一つの柱であるアインシュタインの相対性理論の方は私のようなものでも、その発想、思考の持っていき方といい、導かれた公式と言い(もちろん全部はわからないが)その鮮やかさは、美しささえ感じる。
 一方、量子論がどれだけわかりにくいことか。一例をあげれば、この理論では「真空はなにもないということがない」とする。これは国語の試験だとしたら、典型的な悪文で添削の対象だろう。(正解は「真空にはなにかモノがある」となる)第一、これでは「真空」の語の定義からしてあやしい。
 しかし、量子論的にはここはこういうしかないのだ。この説では真空にはプラスとマイナスの粒子が瞬時に合わさって消え、それが無限に繰り返されていると解く。それをどんな実験や観察をしても「なにもない」としか見えないというのだ。なにもないということが一瞬でもありえない、それが真空の真の姿である、という。
 ハァ?って感じだ。というよりなにもないところにはすべて含まれる見たいな「禅」の世界のようだ。真空は何もないから真空ではないの?私などはもうここで足を取られて思考停止になる。しかし真空にはエネルギーがあり、なにもないところから光子などが生まれる自然界の現象をこう考えないと説明できないのだそうだ。この妙な理論を今から80年近く前に説かれていて、それが今でも認められてまったくの主流だというから驚きだ。そして、そのミクロで起こる衝突や、すべての粒子間の現象はなんと確率で決まるらしい(神の気まぐれだそうだ)いったい全体、なんじゃそりゃ?状態である(笑)

 ある不可思議な現象を観察したら、今までとは全く別の理論を組み立てる。物理学で打ち立てたこの作業がわれわれ医学界の人間は非常に苦手だ。極言すればどうもそれはわれわれは学生の時から飼い慣らされたものではないだろうかとふと思ったのだ。

  医学生は解剖という学問を修めなくては医師になれない。解剖学の授業は私達の時代は学生3年目から始まり、その授業を受けることこそが医学生になったとの証しであり、襟を正さなくてはならない最初の緊張する講座であった。それまでは机上で医学を表面からなでて、その香りのみ嗅いでいる中途半端な学生で、このことを境として、初めて人体に触れる(それも刃物をもちいてだ)とっかかりであった。その状況を最初から思い出して述べると一冊の本(はきわめて大げさだが)くらいになる。それほど強烈な印象であり、おそらく解剖学を修めた前後ではみな人格も少なからず変化したのではないかとさえ思っている。
 
 それはさておくとして、解剖学の教授はひとしきり説明と解剖の心得をわれわれ学生に講義した後、しばらくしてから、
 「教科書と違うものを解剖しながら見つけたら、その班に試験の点を10点をプラスするぞ」
 とのたまわった。その教科書と違う血管や筋肉の状態をアノマリー(破格)と呼ぶ。解剖学は4人一組で行う。班員はアノマリーを探すべく色めき立った。ひねくれた私はふとそのとき思った。「ふん、そんなものは、なかなか見つからないのだろう。そういうエサで一生懸命解剖させようって魂胆だな」と。
 
 実はそれは大きな間違いであった。人間の体は大まかなところはみな同じなのである。それこそ心臓は一つで肺は二つとかを始めとして、大きな血管は教科書通りにちゃんとその一に収まっている。しかし、その枝の枝など末端の構造にいたってはまるで違ってくる、一つ血管がわかれていけば、それだけバリエーションが増えるのだ。結局、手や足など心臓からどんどん遠いところはむしろ教科書通りなどとは一つもありえない。
 この構造を利用したものに最近銀行などのセキュリティに利用している「手のひらの静脈の走行」だ。人体は不思議なことに大概は疑似だが、すっかり相似同一とはいかないのだ。私はあちこちの班で破格の発見を叫ぶ声を聞き、あせってまじめに探し始めた覚えがある。
 
 すべての人が違うということはそこにスタンダードはありえない。標準がなければ、そこに公式や定理は生まれないのかもしれない。私どもは物理学者とは違って「人体にはすべて公式というものは存在しない。むしろそれが当たり前の状態」と学生の頃からたたき込まれてしまっていたのだ。
 
 すると、どうなるだろう。医師になって人体でもし不可思議な現象が現れたとする。そのとき、それを「個体の異常」と見ることが一般化してしまうのが医学の徒であろう。量子論を編み出してそれまでの学説をひっくり返した物理学者とは異なって。
 
 論理を組み立てる作業や訓練をしてこなかったわれわれは不思議な現象を何度もくり返し見ても、異常と判断できず、また新たな発想の転換ができにくい回路になってしまっている。それも、解剖の時の「人間は個体差があってあたりまえ」という思考をずっと訓練してきたたまもの(?)なのだろうか? 量子論を読んでいるとき、ふと解剖学を勉強している自分を思い出したのもなにか縁があるのだろうか?
 
 量子論は神の気まぐれなどという変な概念を取り込む理系の学問、しかし医学はいつも、絶対の公式を持たなかったそういう学問だったのではないか。
 と、私は同じ理系の学徒として180度思考が離れていってしまった物理学者に憧憬のまなざしを持ちながら文を追っていた。こんなふうに、最近、読書できるけだるい午後、とりとめのないことを考え始めている。


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2005年10月10日月曜日「貴種流離譚」
 貴種流離譚(きしゅ・りゅうりたん)という説話の分類がある。
 とにかくこの手の話が日本人は好きである。高貴の生まれの人がさまざまな土地を巡り、降りかかる試練を克服し成功する、または神となる話だ。以前の「ロールプレイング・ゲーム」の話とよく似ているが、そもそもの言い出しっぺは大正時代の民俗学研究家、折口信夫が命名した分類らしい。我が国では古くから認識されていたようである。
 
 熟語の原意は貴種=尊い人、流離=放浪する、という意味だ。
 ヤマトタケルやスサノオに始まり、光源氏やかぐや姫、在原業平もこの仲間だ。派生として、「源義経が死を逃れてジンギスカンになった」伝説とか、最近では記憶を失った主人公が名家の出身だ、という韓流ドラマの筋や、もちろんRPGの「ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー」シリーズはみなこれに近い。
 欧米でもハリー・ポッターの潜在魔力が強いのも、ルーク・スカイウォーカーのフォースが高いのもどうやら「貴種(?)」だからか?
 
 流離ではないが、先頃の衆議院選挙でも二世候補が多く当選し、議会内で発言も重きをなす人々にもまた多いと聞く。「血縁」という貴種は、本来そのようなものを排除しないといけない民主主義の中にもどっぷりと根ざしているのがなんとも当惑してしまう。選挙という手続きは経ているが、北朝鮮の独裁者の王朝継承を笑う資格が我が国にあるかというとあまりいばれたものでない。人物本位というよりも、その貴種のかたが持っている利権やイメージで投票するのでは、やっていることは五十歩百歩かもしれない。

 話がずれてしまった。

 ともかく、キーワードは「貴種」で、これがなくては始まらない。主人公はなんらかの理由で現在は力を出せないでいるが、「身に備わった高貴、才能」の片鱗は隠していても、本人が覚えていなくても、どうやらただものではない、とにおわせる工夫がされている。
 連続ドラマで言うならこの手がかりが次週まで「引っぱる」テクニックなのだろう。最終的には「この人が実はすごい人だったのは高い身分の人だったからだ」と回りも認めてしまう、なかば強引な説得法をベースとしている。
 これは歌舞伎の「やつし」という重要な芸につながるらしい。歌舞伎では高貴な人がなんらかの理由で「身をやつして」みすぼらしい格好をしているが、その仕草に高貴さをにじみ出すという芸があるが、これこそまさに貴種流離まんまの芸である。
 
 このような場合「運命のいたずら」という言い方をするが実は不正確である。運命とは切り開くもので、人間の意志を超越して幸不幸を与える力のことだから、貴種に生まれついたことはイコール運命ではない。生まれる前から貴種であったことが決まっていたわけだから、「宿命」とでも呼ぶべきものだろう。
 わが日本人はこの「宿命」にいつも縛られている。自分の存在というものを家と血のつながりにおいて常に意識下に感じている。このため、誰もが備わっている日本教といってもいい先祖崇敬は美徳とも言えるし、神社・道祖神などに「畏れおおし」という感覚も共通なものだ。それらの前で「こうべをたれる」という独特の風習は日本人こそであろう。同時に「血は水より濃い」という家社会で二千年近く暮らしてきた。だが、ひとたび医学の分野がからむとこの美徳がマイナスに働き出す。

 遺伝病という概念が日本ではとてつもない偏見を助長してきた。文字通り、親から子に伝わる病気なので「業」であることには間違いない。発症した際、医学的に遺伝の仕組みを説いても、夫婦でなすり合いをする傾向が根強くあった。
 「こちらの家系ではこんな病気は一人もいなかった」
 とばかりに、もし相手の家に同病が一人でもいたことがわかれば、
 「そっちの家の血のせいだ」と泥仕合が始まる。
 
 遺伝病は優性、劣性、伴性(ばんせい)などの形式をとる。この時の優劣という単語は病気の程度や重症度とは全く関係なく、あくまでも親から子へと遺伝していく際の染色体の組み合わせと確率によるものだ。この中で治療法のない悲劇的な重症の遺伝病のほとんどは劣性遺伝という形式をとることが多い。詳しいことは教科書に解説を譲るが、この場合、病気の子供の両親は、ともに必ずと言っていいほど健康体である。ゆえに、病気を宣告されたとき夫婦お互いの「血」を疑い出すことになる。が、これは全くのナンセンスだ。
 
 最近は医療側もかなりきちんと説明するから、両親を不安におとしいれたままにしないだろう。が、一度聞いただけではなかなか理解できない。
 劣性遺伝の場合、夫婦双方保因者(ほいんしゃ=キャリア)という病気の種を隠し持った状態でないとならない。つまり夫婦ともども、病気が発症した責任に対しては等しく50:50となる。
 保因者同士が子供を作った際、4人のうち1人に病児が生まれる確率だが(実際はもう少し下方修正されるが、理由は割愛)これが宿業輪廻とは無関係なキリスト教などの宗派だと、夫婦に障害児を授かることが「神の意志」ということになるので、悲しむどころか「夫婦をより強く結びつけために生まれてきた天使」とまで精神的に昇華させることもあると聞く。
 日本と欧米は風土が違うので全く比べようもないし、私はキリスト教は不案内なのだが、このプラス思考は大変素晴らしいものだと思う。が、遺伝の仕組みがよくわかっていないと、「この子が生まれてきたのは先祖の業」とインチキ宗教にだまされていろいろお布施をしなくてはならなくなる。

 貴種を認めているという態度は裏返せば劣種も認めるという態度と同じことになる。われわれの心に巣くう認識はいずれ遺伝子診断が気軽にできるようになると、自分が持っている遺伝子の異常まで把握し、優劣をつけるようになる。下世話的には結婚相手や就職先から、生命保険の掛け金、保証金額まで遺伝子の質に支配されるようになるだろう。いままで教育してきた「人は平等に生まれついている」というテーゼが崩れ落ちていくことは必至である。もちろん治療法のない悲惨な遺伝病はこのようにして保因者を事前に知ることができると、バースコントロールを巧くすれば発病を抑えることができるから有用であることに間違いはない。それでも、遺伝子を知ること、操作することは身の置き所に困るようななにかしっくりこない不安感が残る。劣種を駆逐することが人類の発展に寄与するかどうかがわからないと思うからだ。
 
 病気や遺伝子の狂いも種の生存のため、必然から起こされるとすればどうだろう。

 遺伝子が単一に近くなると、天変地異現象がその種に降りかかった場合、一撃で絶滅する恐れがあるのだ。またある種族の個体が一定数まで減少するとその種は絶滅に向かう。必死の保護もかいなく、滅んでいったトキのように、遺伝子の多様性が得られなくなって種の体力が尽きてしまうのだ。これらを思うと人類があるベクトル(たとえば遺伝病のないという)を指して導いていく優性種製造はきわめてあやういのではないかとも思う。

 貴種流離譚は最終的には落ち着く場所が与えられる。物語の中で人は運命に翻弄され、時に喜び時に呪う。が、最後には神の意志を感じて感謝するか諦念する。

 貴種だろうがなかろうが、人間とはただそれだけの存在で、それ以上望んではいけないのではないか、とも考えるが、医学科学の進歩はそんなことも立ち止まって考える時間すら与えないような気がする。


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2006年3月8日水曜日「肥満は伝染する?」
「水を飲んでもふとるんです」
 と診察室で言われる方がいる。本人は誇張のつもりではないにしろ半ば本気でそう信じている。が、科学的に考えてもそんなわけはない。というのは、体重の維持は簡単な計算で成り立っているからだ。

 生物は生きていく上でどうしても必要なエネルギーがある。生命維持に欠かせない心臓や肺を動かすエネルギーをはじめとして、体温を発生させるエネルギーも重要だ。これらは基礎代謝と呼ばれている。
 また、体内でいろいろな化学反応を起こしているので、それをまかなうエネルギー、そして、意外と忘れがちだが、食物を消化吸収する時に使うエネルギーと発生する無駄な熱だ。これは食事誘導性熱産生と言われており、各人でその熱量は大幅に違ったりする。これらは基礎代謝と合わせると、家計にたとえると収入に対しての天引きの税金分といえよう。そしてこの税金分が体重支出の部だ。これに意図的に消耗する筋肉エネルギー、つまり歩いたり、走ったり、スポーツで筋肉を動かすエネルギーなど、を全部加えると一日のエネルギー消費量が計算できる。食べて吸収するエネルギーから消費エネルギーを単純にひいたとき、プラスなら太るし、マイナスならやせる、だからもし「水だけ」しか体に入っていなければ絶対にやせるはずである。
 
 もちろんこの方は比喩で「水しか飲んでないと思うくらい、そんなに大食していない」と言っているのだろう。そして
 「他の人に比べてそんなに食べてないよ、でもどうしてどんどん太るのか」
 というニュアンスであるなら、これは正しい場合もある。
 
 上で述べたように筋肉を使って消費するエネルギーは各自で調整できるが、天引き分は個人個人でみな違うといっていい。いわゆる基礎代謝や熱産生が小さい=「燃費」のいい人なら同じだけ食べても運動で燃焼しないと太っていくということがおわかりだろう。
 不公平だが、これはコラムでも何度も登場したわれわれの設計図である「遺伝子」に書き込まれたものなので、ちっともやせないことを呪っても仕方がない。燃費のよい人は体型を維持するためにはダイエットをしつつ、疲れ果てるまで運動して涙ぐましい努力をしないといけないのに対し、燃費の悪い人はビールを飲みながらポテトチップをつまんで寝ころんでソファーで映画を見ても太らない、ということもありうる。
 
 これをみても、なんと人間は不平等なのかとなげいてしまう。
 また、やっとの事で痩せてみても、その人の持って生まれた遺伝子は元の体型に戻そうと必死になり、ダイエットしても運動してもますます基礎代謝を減らし、意志とは反対に太ろうとする。
 その人に決められた体型・体重は元々決まっていて、体は努力をしてもそこへ向かわせようとするのではないかという学説が生まれた。これを「体重のセットポイント説」といい証明こそされていないが、傍証は数多くありこれを支持する研究者も多い。
 ダイエットは無駄である、と決めつけられたようで興ざめではあるが、なるほど一度は痩せることはできても、永久にやせている方法が解明されていない。だから、あれほどダイエット法が本屋の一角を埋め尽くすほど百花繚乱なのだなと納得できる。
 やせ方は簡単である。食べなければどんな方法でもやせる。それを維持する方法や薬がないのだ。
 
 人を太らせるその遺伝子とは倹約遺伝子とか呼ばれているし、今から20年ほど前だが、肥満そのものに関わっているとされるレプチンという肥満遺伝子も見つかっている。(レプチンは一筋縄でいかなくていろいろ不思議なふるまいをするのだが詳しいことは専門的すぎるので割愛)
 
 欧米圏は肥満に対してかなりいろいろ研究が進んでいるので、調べるといろいろおもしろい研究が見つかる。

 極めつけは「肥満は伝染する」ことがあるらしい、ということだ。・・・遺伝の間違いではない。
 
 アデノウイルスという風邪の原因のウイルス種がある。この種類のウイルスは人に感染するものでも50種類以上見つかっており、そのうち有名なものの一つは夏に大流行するプール熱(咽頭結膜熱)がある。人だけでなくニワトリにも容易に感染するので、あるときアデノウイルス36型というウイルスをニワトリに感染させた場合、肥満を引きおこしたという。この肥満したニワトリを解剖して調べたところ、このウイルスが視床下部(体のさまざまな状態を保つコントロールセンターだ)の満腹中枢を破壊していることがわかった。
 食事が十分にとれて満腹を感じるメカニズムはこの満腹中枢がつかさどっている。ここが壊れてしまうと満腹を感じることができず、過食してしまうという仕組みだ。実際、人間でもなんらかの形で満腹中枢の働きが弱い、または壊れているとき肥満になる。そこで、人間の肥満者の血液を調べてみたところ約15%にアデノウイルス抗体を認めた。しかし、痩せている人からは一人も抗体を認めなかったという。
 
 すべてがウイルスのせいではないだろうが、風邪ウイルスにやられてその副作用でデブってしまうとなることがあることと、デブい人の看病をしたらデブがうつってしまった!ってこともあるかも知れない。
 
 まあこれなんかはかなり極端な学説だろうが、医学論文の学説はかなり推測が混じることが多い。肥満に関するさまざまな仮説はまさに何でもあり状態なのだ。最近書店に並んでいる新書で「99.9%は仮説」(竹内薫著)という大胆な本があった。医学はともかくとして、私達が常識だと思いこんでいる学説のほとんどが証明されていない、というのだ。読んでみるとなんだかだまされたような気がするが、こと医学に関しては当てはまっている。
 10年前の医学の常識はいつもくつがえされている。
 ノーベル医学生理学賞を取った学説でもひっくり返されているものもある。また、去年のノーベル賞受賞の「ピロリ菌」の発見は15年くらい「胃の中で菌が生きていけるなんてウソだろう。でっち上げだ」と学会ではずっとほっておかれたのだ。それがいよいよ胃癌の原因らしいとなると180度賞賛の渦・・・なんだかなぁ・・・である。
 
 肥満の原因も伝染なんか・・・って笑っていると、いきなりノーベル賞もんかもしれませんよ。
 が、私達臨床医はどこまで仮説の学説に踏み込んでいけばよいか、いつも頭を悩ましている。治療の「全国平均あたりまえレベル」はこれくらい、って指標がいわゆるガイドラインと呼ばれるしろものなのだが、これも毎年のようにちょこちょこ変更される。本当の治療に近づいているのか迷走しているのかわからない時もある。
 
 肥満一つとっても、おそらく全国の臨床医の指導や理解は十人十色であろう。ましてや命に関わる病気に関しては・・・と考え始めると頭が痛くなるので、またまた本屋に行って、肩のこらない本を物色しているこのごろである。いけませんなぁ。(苦笑)


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2006年3月29日水曜日「神の暗号」
 eiπ + 1 = 0・・・(自然対数eを虚数・円周率の階乗)に1を加えると0になる。

 これが話題の小川洋子著「博士の愛した数式」*そのものである。作中でもこの数式はストーリーの上でキーになっており、タイトルに抜擢したことは内容から言ってもふさわしい。というのは、この数式は数学界でもひときわ目立った公式だからである。
 これはオイラーの数式または等式と呼ばれ、その式の持つ深遠な意味(正確には私は理解できないが)に比べ、あまりにも簡潔な調和をみせるから、その美しさをもって「人類の至宝」とまで賞賛されている。
 至宝・・・なんて大げさではないか?とつっこみを入れてしまいたくなるが、数学者にとってはこの世で一番美しい等式であるらしい。
 高校3年あたりで習うことになる自然対数と虚数は数学のきらいな人にはアレルギーの元であろう。だが、数学界ではかなり重要なアイテムである自然対数と虚数は、導き方も活躍する場も、それぞれ違うし、お互い知らぬ仲同然なのだ。なのに、それがたった1と0と円周率でつながっている、と表されている。

 それがどうした、と間違っても言ってはいけない。全宇宙を支配している共通の真理は宇宙人が存在しようがしまいが、おそらく「数学」のみだろう。作中の博士ではないが、神が宇宙にそっと隠した真理に到達できるのが、数学者のみかもしれない。だとしたら数学者は神に祝福されているに違いない。
 
 ところで、今期の直木賞受賞はガチのミステリである東野圭吾著「容疑者Xの献身」だった。この作品も数学者を主人公にすえている。いままで本格ミステリ作家はなかなか直木賞では相手にしてもらえなかった。候補ならともかく、受賞作が完全な本格ミステリというのはめずらしい。
 ミステリはその名の通り「謎」を作品の最高の位置に置くため、「人間がかけていない」という意見を重鎮(誰とはいいませんが渡○淳○氏あたり)が吐けば、その作品は、はいそれまでよ、だった。
 選考委員たちが好んで落選の烙印を押す時に使う常套句がこれである。ミステリファンにとって、純文学畑の重鎮たちは天敵だ。
 だが、直木賞でもミステリ作家はいたぞ、という方もおられよう。そう、特に女流に顕著だ。直木賞をはやばやと手中におさめた高村薫、宮部みゆき、乃波アサ、桐野夏生などが思うつくままあがる。直木賞ミステリ連は女尊男卑のようでもある。彼女ら女流ミステリ作家群は筆力、構成ともにさすがのものを感じさせるが、サスペンスに重点を置きいずれも本格ミステリ度が薄い。
 一方男性受賞者ではミステリでデビューした高橋克彦、連城三紀彦、泡坂妻夫らもいたのだが、受賞するあたりから私の好きな世界から足を洗っている。そして、高村女史などはすでにミステリとはあっさりと縁を切ったそぶりである。宮部、乃波両氏も今後は推して知るべしであり、そのうち恩田陸、伊坂光太郎*と必ず受賞するだろう作家たちも、初期はミステリSF色が強かったものの次第にミステリ度が薄くなっているのが私としては不満があるところだ。
 「おいおい、直木賞を狙っているためにミステリを捨てるんかい!」と叫びたいところを、東野氏は今回、驚天動地の一発トリックで(というと作者は喜ばないだろうが、まさしく「驚き」だしラストシーンも私は好きだ)直木賞を取ってしまった。ミステリファンとして大拍手である。(もっとも東野氏は賞の候補になること6回目というこの世界の苦労人だ。ミステリ万歳!)猛烈に話がそれてしまった。
 閑話休題

 「容疑者X・・・」これも主人公は天才数学者であり、期せずして数学に関した本を連続で楽しめた。
 私は数学は学生時代から嫌いではなかった。といって成績がよかったわけではないが(笑)
 才能はないことは承知していたので、それを研究しようなど大それた夢は持たず、数学の問題の見事な解法などはわずかにでも理解できれば満足であった。
 実際、名探偵コナンの決めゼリフ「真実はいつも一つ!」ばりに、数学という学問のあいまいさを排したピュア度、高潔さにあこがれていた。というより、見とれていた、が正しい感じだろうか。
 解く道は幾通りもある。鈍くさい無骨な力技から、スマートでエレガントな解法まで正解にいたる道筋は無数にあることも好ましい。応用力や直感力がそれほど優れなくても、いつかは正解にたどり着ける。
 数学は直接社会生活に役立つことはないが、論理的な思考を身につけるには最も優れた分野ではないかとも思う。
 
 医学はそれとちょうど対極の位置にあり実用一点張りの学問である。といって非論理的学問というわけではない。医学を極めるには論理的な思考は絶対必要だ。
 論理を積み重ね、検証していいかげんさをどれだけ排除できるかが、民間療法と医学の垣根になるからだ。しかし、数学と違って医学においては解答がピュアな単一でない。スタンダードな治療法は万人にとって真の正解にならず、昨日の常識が明日には根こそぎひっくり返ることもしばしばだ。そこに大きなジレンマがある。
 数学には絶対という概念が必要だし「定義」や「公理」「公式」は揺るがしようがない。その正しさを認めた上で次のステップに進める。土台が崩れるという心配もないし、その土台を元にした新しい発見も一度証明されたら未来永劫変わることはない。(幾何学ではいろいろ改変があるらしいが)
 そもそも「神が隠した真理」を見つけていくのだから、広大無辺に広がる数学世界はどんな最後の1ページが用意されていても、そこに人類が到達することはないだろう。人類が300年以上悩み続けた「フェルマーの最終定理*」をついに証明したからと言って数学界が狭くなることがなかったことでもわかる。
 
 一方、医学においては神が隠したものはどこまで覗いてよいのだろう。対象が人間だから、生老病死をつかさどる遺伝子をすべて解明してしまえばそこが最後の1ページであるのかも知れない。私が学生の頃、遺伝子の講義を受けたとき、大きな恐れと疑問がふくれあがったのを覚えている。
 
 遺伝子はDNAともいってよいがその本体はたった4種類の核酸である。それがずるずると果てしなく並んでおり、核酸3つごとに一つのアミノ酸を作ることを指令する。この三つ並んだ核酸一組を「コドン」と呼ぶが、コドンごとに役割が決まっていて自然界に存在する20種類のアミノ酸をそれぞれ指名している。(たとえばグアニンが3つ「GGG」でグルタミン酸を作るなど)そしてつながったアミノ酸がいくつかまとまるとタンパク質になる。
 タンパク質はすべての細胞の元となり、大切なホルモンや神経伝達物質、筋肉や臓器を作る。この遺伝子が狂うと大事なホルモンを作れなくなったりするわけだから病気が発生することになる。DNAの仕事はタンパク質を作り出すことだと理解していい。この暗号のことはだいぶ昔から解読されていた。
 私は人類が飽くなき探求心を持つことに驚嘆すると同時に、
「どうして暗号がこのように決まっているのか?」
 と恐怖心を感じた。核酸が20種類のアミノ酸を作る、タンパク質の材料であるし、作らなくてはならないことは理解できるが、なぜ3つの核酸の組み合わせなのだろうか。そして、まず「なぜその3つが並ぶとアミノ酸ができるか」などは誰も気にしないし、教えてくれない。なにしろ「そう決まっていること」だからだ。ここまで考えると、どうも落ち着きが悪い。そう決まっていること・・・数学と違ってそれをわれわれが知ることはしてはいけないのだろう。

 造物主の心の隙なのだろうか、神から見てゴミ虫のような人類が神の隠した暗号を解き始めている。この暗号を完全制覇してしまうと人類はどこへ向かえばよいのだろう。「博士」たちは数学界の海にたゆたいながら無限の時間を約束されているのに対して、医学界にそびえるミステリはとてつもなく高い壁ではあるが、その壁の向こうは荒れ果てた砂漠でないことを祈るのみである。

*博士の愛した数式:2004年第1回本屋大賞受賞、2006年映画化
*恩田陸、伊坂幸太郎:と記したが両氏はいまだ直木賞を取っていない。2016年上半期現在
*フェルマーの最終定理:1665年フェルマーの没後、ノートに記されていた定理はその後300年以上証明されなかったが、1995年ワイルズによって完全証明された。


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2006年10月4日水曜日「死の扉の向こう側」
 人は死後どうなるのだろう。

 万人が納得のできる解を示す哲学者や宗教家はいない。死後の世界を語り、それが楽園だの、現世の行いを慎めば素晴らしい転生があるだの、もっともらしく見てきたようなウソを並べる怪しげな教祖を私は一切信じない。
 死ぬときに扉が現れて向こうが死の世界、こっちが現世などと、物事が簡単なら、死ぬことは
「なあに、家から外出するくらいのものですよ」
 と言ってしまえる。
 最近週刊少年ジャンプで連載が終わった漫画「デス・ノート」では最終章で
 「天国も地獄もない。人は死んだら無である。」
 と言いきっている。そんなところだろう、私もそう思う。だけに、その無がいやおうなしにこわいのである。
 
 私の愛読書の一つ「哲学の教科書」中島義道著(講談社学術文庫)では、その答えがわかるわけではないが「すべての人は死にます」と言い放つ強烈な一文で始まる。
 そこでは哲学とは「死」をとことんまで考えることであるとし、苦悩するまで考え抜いた先達の言葉をいくつか紹介している。
 たとえばパスカルは
 「我々は絶壁がみえないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いたあと、安心して絶壁の方へ走っているのである。」と言う。
 確かに、日常では死(=絶壁)を考えることなく、見ないように努力し、にも関わらず全速力で全員が死に向かって走っている。今にも断崖絶壁が迫っていようが、というのは、交通事故のような突然の死が用意されていようが、というたとえだろうが、みな目隠しをしたまま、死を考えもせずそれに向かって疾走する。考えれば考えるほど不気味である。医師はやはり目隠しをしたまま医学生から医師になり、そしてそれぞれ人の断崖絶壁で無へ落ちていく様を、なすすべもなく見て立ちすくむのみである。
 
 そもそも死とはなんであろう。
 
 理知的な回答ではないが、「生きていないこと」と考える。死んでいる状態は理解できるし、
「ほら、死んでるよ」と指し示すこともできる。だが、反対の生きていることは定義できるのだろうか?そして、さらに生きていること、と生命はまた違うのではないか。
 また「死」を全体死と個別死で分けて考えなくてはならないことも頭を混乱させる。
 
 グロテスクだが例をあげると、少しの皮膚をナイフで削ぐとする。切られた私はその時点で、本体である私は少なくとも生きている。切り取られた皮膚は、というと、細胞レベルで考えるとまだ生きている、ことになる。
 常識だが、切り取った自分の皮膚をもう一度縫いつけると極めて高い確率で元通りになる。これが皮膚移植で、こうなって初めて生きている細胞から生命にもどる。だが、移植せず放置すればその皮膚は必ず死ぬ。それではこのそぎ落とされた皮膚はどの時点で死ぬのか?
 また疑問をひねって考えると「えぐり取る組織をだんだん増やしていく」(あまり想像したくないが)すると皮膚や組織を切り取られた私はある点を超えたところで致命傷となり死ぬだろう。さて、どの切り取り方で死ぬ瞬間が決まるのか?切り取った臓器は生きているのにもかかわらず。すると、あるポイントで手のひらが変えるようにかわるのではなく、生死は常に連続しているか不安定だということがわかる。

 逆に細胞を培養して臓器にする、それを臓器移植に役立てる、例のクローン技術の進化版だが、これは理論的には可能な所までは来ている。
 臓器はこの時点では生きているが、生命ではない。各培養臓器パーツを融合させる、ブラックジャックのピノコ(彼女は組み立て人間である)のように、組み立てることはたやすくないが、ネットワークが構築できる培養液のなかで育てる・・・生きている臓器は連携するようになるとするとどの時点で「生命」を生み出したといえるのか?
 誰にもわからないし、正しい答えなぞ絶対にない。医学においては一見なんの関連もないこういった問題をつぎつぎに考え抜くことが、哲学的思考・姿勢ということになるが、発展させる医学から見たら邪魔である。だから、一流の医師は哲学者になれない。そんなことでつまずいていたら医学が進歩しないからだ。だから、哲学的思考を好む私は医師として二流以下ということになる。

 現在はどうであるかわからないが、私達が医学生の頃は医学教育に「死の臨床」や「医師としての倫理」「医史学」などのジャンルはなかった。「死の臨床」とは必ず死に至る人間に対して医師として何をなすべきだろうか、という問いかけに応えられるべくの学問だろうと考える。
 即時的にはまさに不治の病で苦しむ人を精神的に救う方法論(できるかどうかはまた別問題だが、具体化したものはホスピスと考えていい)思考法としては安楽死の是非、脳死臓器移植などに対して、感情に流されずしっかりと意見を持つことが目標となるだろう。もちろん、大学の講義だけでそれらが身につくとは思えない。勉強以前に幅広い教養と情緒あふれる人間性が要求される。だが、私がそんな簡単なことに気づくまでは長い年月が必要だった。

 死の医学は「医学の敗北である」と少なくとも医学生から医師になるまでの間はそう思っていた。なぜなら、医師とは命を救うものだと思っていたからだ。死を容認することは病魔に対しての降伏であるし、それは何よりもくやしい。また、何もしなければ病気に苦しむ患者に死が訪れるのは明白であるから、それを受け入れることは職務怠慢につながることではないかと考えた。死に導く医師は職を放棄しているとさえ思った。
 
 私が初めて「ご臨終です」と一人で言わなければならなかった最初の患者さんのことはよく覚えている。その時は、研修医だったが当直をしていたときの病院で入院患者が急変したと報告を受け、当然のごとくあわてた。
 
 「どうしたらいい」
 なにしろ初めてのことである。
 正確には大学病院で患者さんの亡くなるときに立ち会ったことはあったが、先輩医師にくっついていたのみで、深々と黙礼しただけだった。一人ですべてを取り仕切るのは初めてである。頭にカッと血が上った。先輩にあれこれ急変時の時の対処は聞いていたが、落ち着いて思い出せる状態ではない。とるものもとりあえず、当直着に白衣を引っかけて走り出した。
 ナースステーションの隣に形ばかりのICU(集中治療室)がある。患者はそこに移され、酸素マスクをあてがわれ、ナースが数人張り付いている。私が入ると寄り添っていた家族がとまどいながら反射的に飛び跳ね、ベッドまで道ができる。かけよるとカルテを渡される、同時にバイタルサイン(血圧・呼吸・意識などの数字)を矢継ぎ早にナースが言う。言われるまでもない、瀕死の状態である。自発呼吸がないのを見て取った私は「挿管!」と叫ぶ。すでに準備してあったのか喉頭鏡(呼吸管を患者の気管に入れるための道具)をナースの一人が取り出す。

 20年ほど前は急変患者にはほぼすべて気管内挿管をした。たとえ癌末期患者でもである。結果的に私が看取ることになったこの方は主治医ではなく刹那的邂逅だったため、主病名は覚えていない。だが、その方の名前とその時の光景は今でも覚えている。そして、ほどなく、私は救命できないことを知った。

 私とその方は今まで現世でおそらく一度も出会ったことはなかっただろう。その方の数限りない体験と長い人生があったにもかかわらず、すべて消え去りつつある最後一点に集約されるその時間のみ私は唐突に現れた。神の視線でその現場が見えるとしたら、生死を隔てる扉が開いて、その方を送り出した瞬間またそれは閉ざされたことになる。
 私はそのことがあってからも何度も患者さんの極めて大事な一瞬にあらわれては「ご臨終です」のシグナルを送り続けた。私はその異常な状態についてちっとも違和感を感じなかった。ただ黙々と仕事をこなしていた。それが変わりはじめたのは、医師として自分は無能であると思い至ったときとほぼ同じだといっていい。

 生死が交錯するその現場に何度立ち会ってもなにも感じることがない、のであれば死に対して鈍感になりすぎた、と私は考える。死を真正面から思うこと、感じること、向き合うこと、医師としてその答えは常に心にたかだかとかかげなくてはならない。万人に必ずやってくる死は平等だから、なおさら純粋に考えるべきである。
 
 人を生かすことに関しては哲学はいらない。がむしゃらに突き進み、正しいと信じることをただただすればいいからだ。それが死に至る患者に対して、生命維持処置を施すかつての私のごとき医師のように、無理矢理呼吸をさせ強心剤を打ち、心臓マッサージをすればとりあえず眼前の死から逃れられる。

 私が死に直面するそのとき、自分が数多く知らずに開いた死に至る扉を見ることができるのだろうか。
 その時「ああ、この扉が見えなかったなんて・・・、見えていたら・・・」と笑って
 「死のことなんて考えなかったのに」と言うだろう。

 医師を目指す若者がもしこの拙文を目にすることがあったら、「死の扉」の問題をぜひ心に留めておいて、そしてあらためて夢に向かってほしい、と切望する次第である。

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2006年12月27日水曜日「冬眠の可能性」
 気のせいだろうが年末になると仰天ニュースが飛び込むことが多いと思う。

 私は現在の自分の思考や連想はかなりのところ手塚治虫氏の影響が大きいと感じている。彼の漫画を読み狂って育ったからだ。

 「バンパイア」で描かれていた、変身できる人類はいたのではないか、とか、「鉄腕アトム」で見たロボットとの共存は自分が大人になったら実現しているのだろうとか、「火の鳥」でみた冬眠=コールドスリープも21世紀では実用化しているのだろうな、とか子供時代は真剣にそう思っていた。人類の進歩は手塚氏も予想ほど速くなく期待は全く裏切られたが、私は手塚氏を少しも恨んでいないどころか、夢をたくさん分けてもらって心底から感謝している。

 野外で遭難し、行方不明になりその間21日飲まず食わずで奇跡の生還したという男性の話もニュースを聞いて、まさかフェイクじゃないだろうか、と失礼にも瞬間思ってしまった。どっかで隠れていたのではないだろうな、と意地悪な考えも、もたげてしまった。それほど今回のことは現代の医学的に解釈しても不可能事である。

 最初は遭難して骨盤を痛め動けなくなったので、持っていた「焼き肉のたれ」をなめながら生き延びたという報道だった。それなら「なるほど、水とそういうソースみたいなものがあればこの日数を何とかしのげてもおかしくない」と思っていたのだが(これだって相当きつい!)実は意識を失って20日余と聞いたので二度びっくりした。
 
 意識消失すれば水分補給などできず、ましてや栄養補給などありえない。全く水分摂取をしない場合、人間は数日で絶命するということは医学常識である。逆に水分さえ確保できれば相当の日数は生き延びることができる。震災でがれきの下にはさまれ閉じこめられながらも夜露などなめ1週間くらい生存したという例はかなりあることからおわかりであろう。

 意識がない、ので寝返りなんぞもできないわけだから床ずれはどうしたんだろう?とささいだが素朴な疑問が生じる。人間の皮膚は引っぱったり叩いたりする強度はかなり強靱だが、圧迫には案外弱い。体重などで圧迫され続けると皮膚の毛細血管の血流が途絶えて、すぐに血が回らない虚血状態になる。わずか数時間の虚血で皮膚の組織壊死を起こすのだ。
 普通に8時間寝て、朝起きてお尻の回りに床ずれができていた人はなかなかいないだろう。だから人は寝ている時、必ず寝返りをうっている。寝返りを打てない重症の病人は看護師達が体交(体位交換)といって必ず何時間かおきに体の向きを変え床ずれを防止する。逆に床ずれができてしまうとなると十分な看護ができていないという証しになるので、夜勤のナース達の大きな仕事の一つが体交なのだ。
 
 問題の本質からはそれているであろうが、この方の場合床ずれができておかしくない状況であるし、床ずれとは皮膚潰瘍と同じ意味になるから、その腐った組織は細菌の繁殖場所になるし、そこから全身に菌が回り敗血症を起こせば、それが命取りになる。
 事実、病院で床ずれができてありふれた菌による敗血症で亡くなる方だって少なくない。今回、治療した医師に聞かなくてはわからないが、床ずれがあったならなぜ感染症を起こさなかったか、なかったならそれはどうしてできなかったか、をぜひ知りたいところだ。

 今回の例は何から何まで特殊だ。なにしろ発見時の体温が22度と聞いて、救命にあたった医師達も絶望していたに違いない。
 しかし、微弱ながら心拍を認めた医師団はそこから懸命の努力をする。その頑張りによって、脳も臓器も後遺症を残さず奇跡の回復をしたのだ。

 交通事故などで致命的な脳障害を受けたと考えられる状態の患者に「低体温」療法を施したところ、麻痺などを残さず回復したという報告もあるので、この療法をご存じの方はそれと同じか、と膝を打つかもしれない。
 私もその類似点は認めるが、この低体温療法は悪い言い方だが本当に医療の手のかかるもの、なのだ。冷やしておいてほっぽらかしておいたら患者は確実に死に至る。分秒単位での患者管理が必要で、なおかつ患者はすぐに急変する。医師団は不眠不休でモニターを監視し続けるのだ。大学の救命センターで低体温療法を目の当たりにしたので私は今回のことと同じだとは考えていないが、救命できた生命の神秘のシステムの根幹ではつながっているだろうとは思っている。

 低体温状態ですべての臓器が活動を停止、あるいはほとんど機能せず、そのためエネルギーの消費を極力抑えられたのが幸いしたそうだ。心臓も脈拍を限りなく少なくし、低体温になると最も酸素と栄養不足に弱い脳組織もスタンバイモードになり、すべての組織が低活動になれば老廃物も生まれず、従って解毒する肝臓も力を温存でき、排泄する腎臓も休眠できる。家電の待機電力カット機能のようなものだ。実に合理的なこの状態はある種の動物は生まれながらにして持っている。言わずとしれた「冬眠」だ。

 2005年米国の学者が動物の人工冬眠に成功したというニュースがあった。マウスに「硫化水素」ガスを噴射したところ6時間ほど冬眠状態になり、その後自然環境に戻したところ完全に元に回復したということらしい。
 麻酔状態でなく、この状態を冬眠と考えたのは、このマウスの代謝(エネルギーの消費率)が90%下がり呼吸数が1/10になったことで「冬眠」と断定したわけだ。  
 硫化水素とは温泉でよくかぐ、あの「卵の腐ったような匂い」である。もちろんそんなものを高濃度で吹きつけられ続けたら死に至る。なぜそうなるのか、どのくらい、どの勢いで、などの各論の結論はまだわかっていない。いまだ実験段階らしい。
 したがって、温泉が至る所に噴き出る日本で、山間で遭難し、もしかしたらこの硫化水素のガスを吸入して冬眠したのでは・・・なんてのはまだ想像の域を出ない。

 この冬眠機能、人間でも自在にできれば冬山で遭難しても、穴掘って冬眠すれば助かるってことになるが、そんな緊急の用途に使うよりも、とんでもない時間を要する星間飛行、医学では移植臓器の保存や低体温手術(心臓を止めないで難しい手術ができるかもしれない)などで活用できそうだ。
 またまたブラックジャックネタで恐縮だが、現代の医学では治せない病気の方を冬眠させ何十年後かの医学に託すというストーリーの作品があったが、そういう用途だってありうる。

 大きく構造も生態も異なる爬虫類はともかくリス、クマなど哺乳類でなぜ冬眠できるのか。
 
 実は動物の細胞を低温で管理できたとして血液の供給を少なくして消費エネルギーを少なくすることが可能だとしても、元に戻そうとして再び血液を流しはじめるとその臓器は細胞障害を受け、死滅することがわかっている。これを再灌流(かんりゅう)障害と呼んでいるが、このことも冬眠を実用化させることの大きな障壁となっている。
 
 冬眠動物は体温を摂氏数度まで下げ、目覚めたときはなんら体にダメージを受けていないから、この再灌流障害を克服していることになる。

 この謎を解く大きな研究が日本発で今年なされた。
 
 2006年4月に「Cell」という一流科学誌に日本の研究者が「冬眠を制御するタンパク質を発見、『冬眠特異タンパク質複合体』と名づけた」という論文が発表されたのだ。
 冬眠するシマリスを詳細に調べたところ、一年のサイクルで脳内と他の臓器をこのタンパク質が劇的に入れ替わり作用するという。
 これがなにをしているかはまだはっきりとしないが、各臓器での「通常活動用臓器仕様」から「冬眠用仕様」に変える働きがあるという。

 たとえば心臓は低温に弱い、冬眠するリスでさえいきなり心臓を冷やせば停止する。冷たい海に放り出されると凍え死ぬ前に心臓麻痺することでおわかりだろう。
 しかしリスが持っているこのタンパク質は秋になると盛んに作られはじめ体の各臓器に働きかけるらしい、すなわち心臓は低温に強くなり、ゆっくりと拍動するようになる。いわば心臓が低温で動き続けるように冬眠用にチューニングされるようになると考えていい。
 人間が活用できるようになるには、この蛋白を作り出す遺伝子を見つければよいことになるが、ことは一筋縄ではいかないようで、新たなブレイク・スルーを待つしか進展はなさそうである。

 「2001年宇宙の旅」やSFの名作「夏への扉」、そして「火の鳥」でおなじみのコールドスリープが夢物語から、もしかしたら手に届く時代になったと思うと感無量である。
 来年は実用化か?の報道を心待ちにして年の瀬を迎えている次第だ。

*人工冬眠;2016年現在いまだ実用化されておらず。

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2007年03月02日金曜日「タミフルは危険なのか?」
  ウイリアム・アイリッシュ(1903〜68)というアメリカのミステリ作家に「謎の913号室(副題:ただならぬ部屋)」という作品がある。
 
 あるホテルの913号室に宿泊する客が次々に飛び降りてしまい「自殺ホテル」と噂され、退職刑事の探偵が捜査するが一向にわからない。ついにその探偵がそこで何が起こるのか確かめるためにその部屋に泊まるが・・・という筋である。
 
 もちろん、自殺は怪奇現象でなく、ある人物の意思で飛び降りさせるトリックがあると読者はわかっているのだが、どうやってそのような仕掛けをするのだろうという興味と探偵が実際遭遇するサスペンスで一気に読めてしまう。アイリッシュはこのほかにも「幻の女」「裏窓」「晩餐後の物語」などスピーディでスリルも横溢された良質の作品が多い。お暇ならぜひお読みになることをおすすめする。

 今回、タミフル騒動で、過去に読んだこの作品を思い出した。
 
 インフルエンザの特効薬であるタミフルを飲んだ10代の中高生が、連続して高層マンションから飛び降りて死亡するという事件だ。厚労省は再調査に乗り出すようだが、タミフルとの関連性は今のところ否定的と見解を出している。
 この事件のあらましは最初はタミフルを服用後道路に飛び出し、トラックにはねられた岐阜県の少年をのを皮切りに3年間で5人ほど同様の突発的異常行動で亡くなっている。
 亡くなられたのはいずれも若い方なので実に痛ましい。薬のせいだとしたら、怒りの矛先もやはりそちらへ向かうのは当然だ。
 が、本当に薬のせいなのだろうか?

 一連の報道で私が違和感を感じたのは数々のなぜ?である。
 
 なぜ、異常行動が報告されたのは2004年からなのだろう。
 
 タミフルの国内販売は2001年からである。03年にはインフルエンザが大流行してタミフルが品薄になった。その時はかなりの数を処方しまくられていたはずなのに、どういうわけか事故は発生していないことになる。
 そして、なぜ、異常行動の中でも「飛び降り」がほとんどなのだろう?最初こそは道路に飛び出した、というケースだったが、後の5例はいずれも「飛び降り」である。
 もしこの薬に飛び出させる作用があるとしたら、戸建てに住んでいる方はせいぜい2階から落ちるくらいだから報道されないだけなのだろうか?
 それにしても、なにか引っかかるものがある。これが私が先のアイリッシュのミステリを思い出したきっかけである。小説同様なにかの作為が働いていないか、という疑問だ。
 
 薬の副作用で引きおこす異常行動「高いところから飛び降りる」行動が多いというのは私が不勉強なのか聞いたことがない。それも、暴れて錯乱して、何かにおびえたあげく家を飛び出したら、そこに床がなかった、ということでなく、静かにマンションの扉を開けて出て行って1m以上ある柵を乗り越えて墜落したという、操られたとしか思えないほど不可解だ。
 この方が事象としては不気味である。それが薬の副作用じゃないのか?と言われるかも知れない。
 
 そう、おそらく大半の皆さんがいだく共通の恐れがこの不気味な行動だろうと想像がつく。だから、恐ろしい薬じゃないのかとパニックになるわけだ。ただ、インフルエンザに限らず高い熱をだす疾患では以前から「異常行動」が指摘されていた。
 熱にうなされる、わけのわからないことをいう、夢遊病のように徘徊する、回復した後これらを一切覚えていない。後では笑い話になるような熱病特有の症状を見聞きした方は結構多いと思う。
 
 インフルエンザの追跡調査で「異常な言動が見られた」というケースはタミフルを服用した場合と飲まなかった場合に統計学的な差を認めなかった、という結果が出ている。だから、飲まなくても異常行動を同じくらい起こしていた可能性も強いし、すでにインフルエンザ脳症にかかっていた場合はタミフルを飲まずともこのようなことも起こりえる。
 にもかかわらず、「タミフル有罪派」は「タミフル販売以前はこのような事件は起きなかった。報道でも聞いたこともない。タミフルが関わっているのは間違いない」と強気の構えだ。
 
 どちらにつけと言われれば、私はタミフル無罪派につく。今年の夏までに騒動に白黒つけようと厚労省が大規模調査を始めたがその結論がでて、私が謝ることになるかも知れないが、現時点ではそう信じている。
 なぜなら、飛び降りる、という異常行動がどうしても納得がいかない。
 家族が気づかないほどの静かな異常行動(患者が大騒ぎして飛び出そうとすれば力ずくでも引き留めるだろう)はたとえるなら、催眠術である。
 タミフルにそんな作用があるなら、これだけ大量に処方されているのにもかかわらず、その前段階として、傾眠(やたら眠くなる)せん妄(幻覚・幻聴)などの副作用がどうして大量に報告されていないのだろう。
 また、タミフルを飲んで錯乱して事件を起こしたり、殺傷事件に至ったりして、警察の出動を要請したという話が伝わっていない。薬に死に至る行動を起こすような力があれば、水面下でそれに至らないまでも類する事件が何十倍も隠されているのが常だからだ。
 この答えに、私は作為、とまでは言わないが第四の権力であるマスメディアの意識下の誘導があるのではないかと思う。
 
 「犬が人を噛んでも報道に値しないが、人が犬を噛んだらニュースになる」
という名言がある。
 
 飛び降りた少年少女、それのみなら、自殺かも知れないので実名報道もしにくいし全国版のニュースになり得ない。
 しかし、「タミフルを飲んでいた」という付帯条件があれば初めて全国報道に値する。だから、タミフル出現以前のインフルエンザ罹患時に錯乱して中高生の「飛び降り」がもしあっても、報道されていなかったのは私に言わせればあたりまえなのだ。報道の素人の私ですらそう思うのに、どのマスコミの論調もその可能性は検討すらしていない。新聞記者も知っていてわざと避けているとしか思えないのだ。

 幸か不幸か現代の日本ではインフルエンザの診断はクリニックでも、鼻からの検査でものの10分で診断がつく。診断されれば、変わり者の医師でない限りタミフルは処方するだろう。だから、タミフルとは関係なくインフルエンザ特有の症状の「錯乱」で飛び降りてしまっても、「タミフル」のせいにされ続けることだろう。
 
 今回、いろいろ報道を読んでいて、マスコミの医療たたきが根底に存在していると思える節があると思った。今回の騒動で製薬会社を訴える気かと思いきや、さにあらずで
 「錯乱する可能性があるなんて医者から聞いてなかった」
 と新聞に遺族の声を載せ、医師の説明不足をなじる新聞が数社あった。マスコミの究極の目的はそこにあったのではと勘ぐりたくもなる。
 
 いろいろな薬の重大な副作用については私達はかなり気を使って、説明しているつもりだ。
 だが、薬の効能書をご覧になったことがおありだろうか?もし、すべての副作用について説明しなくてはならなかったら、おそらく30分くらいかかるくらい数多くの報告が記されている。
 残念ながら、診察して処方するときに、お一人にそれだけの時間を割ける体勢に我が国の医療はなっていない。そして、因果関係がわからないか、あるいは0.1%未満くらいのまれな副作用は「頻度不明」と書いてある。
 タミフルの副作用の「錯乱」はまさにその0.1%未満=頻度不明と明記してあるのだ。それを説明しなかったということが医療の落ち度につながるのなら、生命保険の約款のような冊子にしてお渡しするしかない。
 
 厚労省の昨年までのデータを紹介するが、今までのべ3500万回処方されたタミフルを服用してその後死亡にいたったのは54人だそうだ。
 そのうち例の異常行動死は4人(今年さらに2人加わったのでより大騒ぎになった)。残り50人は肝障害と肺炎などの重症合併症とのこと。この確率を持って「異常行動を起こさせる薬」と声高に叫ぶのはいかがなものかと思う。
 それに、むしろ肝障害死の確率が高いのだから、私達はもっとその副作用を力説しなくてはならないのだろうが、誰もそんなことは提言していない。

 マスコミに対する文句はそれくらいにして、もし当院でタミフルを処方され、疑問に思う方がいらしたら、私のスタンスをご紹介してこの記を終えたい。

 「薬に副作用のないものはありません。従って、タミフルにおける錯乱、異常行動を引きおこす可能性はありえます。ただ、熱が下がればほとんどは安全と考えられますから、報道にあった異常行動死についてはおそらく薬のせいだけでなく、脳症や高熱との関連も現段階では疑われます。
 
 今まで、毎年、数百万の方が服用して、発売以後のべ3000万回の処方中、痛ましい事故は6例足らずです。タミフルのインフルエンザに対して発熱期間を1日ほど短縮する効果とウイルスの増殖を抑える力は実証済みです。当院では服用しない場合に比べて、早期回復とインフルエンザ拡散を防止するメリットが体に及ぼす悪影響を大きく上回ると判断して、処方する立場をとっています。
 
 それでもご心配の方は服用したくない旨をお伝えください。インフルエンザは自然治癒も期待できる疾患なので従来通りの隔離安静で対処する検討をいたします。
 そして、高熱で異常行動が見られたケースは96%が2日以内との報告がありますから、タミフルを飲まれる方でも服用を拒否された方でも、同様に未成年の方については2日間一人にしない、など十分に観察することが大事です。」


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2007年09月24日月曜日「ストレス病もろもろ」
 マリー・アントワネットは断頭台に上る前の日、ストレスにより一晩で白髪になった、という伝説がある。私の好きなミステリでも江戸川乱歩が「白髪鬼」で墓に生き埋めの恐怖を味わった主人公が一夜で真っ白の髪になったという設定を使っている。
 
 もちろんこれは俗説のたぐいで医学的には一夜で髪の毛の色が変わることはありえない。
 それではなぜ東西変わらず、この恐怖やストレスで髪が脱色するという伝説が根づいたのだろう。
 
 実はこのようなエピソードがもしあったとしたら、一晩で円形脱毛症になりごっそり抜けたというケースではないか、と想像される。
 重症型円形脱毛症では全頭タイプの脱毛もあるのでふさふさの方があっという間に禿頭となることもある。ところが毛根が脱色した白髪はこの急激な脱毛を起こさせるメカニズムから外れているので重症の脱毛症でも抜けず残ることがわかっている。
 すると、白髪交じりの髪の毛の人が一晩で白髪だけ残ることになり、あたかもあっという間に白髪になったという事実が記憶されたのではないだろうか。(実際一本の黒い髪が脱色して白髪になるのは2ヶ月ほどかかる)
 髪の毛はストレスに弱いのだ。脱毛こそ逃れるが、色素が抜けるのもストレスが一因と言われている。
 
 そして、毛髪以上にストレスに弱いのが消化器である。

 「断腸の思い」という言葉がある。
 はらわたがちぎれるほどの悲しみを表現することとして使う場合が多い。
 中国古代の晋の武将桓温(かんおん)が三峡を船で遡上中、従者が猿の子供を捕まえて船中に連れてきた。親子引き離された母猿は悲しみ泣き叫び、陸伝いに船を追いかけ、ついに百里追ったところで子を拉致された船に飛び移れたがそのまま絶命した。死んだ母猿の腹を割いてみると腸がずたずたにちぎれていた、というのがこの断腸の出典である。
 
 余談だが、この断腸のエピソードが記されたのは、猿の死因が珍しかったのではなく、桓温がこの残酷な仕打ちをした従者の地位を降格させたからである。中国では動物愛護の精神はあまりないといっていい。
 「たかがけもののこと」で人事に及んだとは言ってはいけないのだろうが、当時としては桓温の振る舞いが珍しかったため記録に残ったのだ。閑話休題。

 想像を絶するストレスを受けた時、生体は命にかかわるダメージを受ける。
 
 実際、ストレスのみで腸がずたずたにちぎれるなんてのはありえないだろうから、この猿はおそらく虚血性腸炎だったのだろうと推測される。虚血性腸炎とは腸に行き渡っている血管が何らかの理由で血液を送れなくなり結果的に腸が壊死(えし=腐ってしまうこと)を起こす病気だ。
 ただ、血管の詰まり具合にもピンキリであり、軽症では自然治癒するのに対し、広い範囲の腸が腐ってしまう重傷型=壊死性虚血性腸炎は緊急手術でも救命できないことが多い。
 この病気はもちろんヒトにも発症し血栓ができやすい不整脈を持っている方や高血圧、糖尿病などの合併している方にも起こしやすいが、原因不明のこともあり、この中に強いストレスを受けた後の発病が含まれる。

 確かにもしこの病気で命を落とした場合、解剖したら、あちこちの腸が壊死して真っ黒になっているのをみるだろう。それを「ずたずた」と表現しても当たらずとも遠くない。
 
 英語表現では断腸を辞書でひくと「ハート・ブレイク」と訳される。おいおい、こちらは「傷心」じゃないか?断腸と傷心ではだいぶニュアンスがことなると思ったが、傷心=心臓を壊す、ってことにすれば強いストレスで心筋梗塞か、と考え直すと同格の言葉に昇格するようだ。
 
 胃腸はストレスに弱いと言われている。強いストレス下では胃の粘膜から出血し、吐血することもある。

 マウスを使った有名な実験がある。首まで水に一昼夜浸からせ、身動き取らせないようにしたもので、このマウスの胃を調べると、粘膜がただれてあちこち出血していた。水に浸かっていてもわずかにストレスを解放するかじり棒をくわえさせたマウスは出血が軽くてすんだことから、ストレスが胃粘膜を痛めて、同時に発散させるとその程度は軽度になると証明された。
 また、余談だが、現在このような実験は愛護協会からおしかりがくるのでできない。たとえ論文にできたとしても、動物に苦痛を与えるような方法をとったことがわかると掲載されない。今後とも動物にストレスを加えるという実験は無理なようだ。
 さらに余談になるが、人間では簡単に潰瘍ができ、医療の現場でもおめにかかるが、実験マウスでは浅い潰瘍(びらんというが、正確には潰瘍ではない)しかできなかったのだ。
 そのわけは近年発見されたヘリコバクターピロリ菌という人間の胃に高率に生息する菌がいた場合、ストレスや喫煙、暴飲暴食などの因子が加わると相乗効果で潰瘍になるというからくりがようやくわかってきた。

 ストレスでは食欲も落ち、また下痢や便秘などの便通障害も頻繁に起こす。その便通障害に伴う腹痛があれば過敏性腸症候群と呼ばれる病気になる。これは社会生活上きわめてやっかいな病気である。  
 
 これは朝に症状が強いため、通勤時に急行など長い間扉の開かない電車に乗れない。
 患者さんは電車のドアが閉まると同時にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなる、そんなわけで各駅停車しか乗れないことになる。
 まるで、登校拒否児童のようだが、れっきとした病気なのでストレスを避けなければなかなか完治しないのだ。夕方になるとけろっとする場合があり、食欲も戻り痛みもなくなる、従って体重も減らず、本人がつらいのに人からはあまりそうは見えないために仮病疑惑をかけられるケースもある。

 子供もかかることがあるので、以前この病気が知られていなかった頃、腹痛での不登校や午前中の保健室エスケープ生徒たちは「さぼりぐせ」と決めつけられていた可能性が強い。まことにかわいそうであったが、病気でなくホントにさぼってたヤツも多かったので、十把一絡げに白眼視されていたのだろう。現在はどうなのかよく知らないが、保健室の先生も頭の片隅にこの病気のことを覚えておいてもらいたい。

 かくもやっかいなストレス、今回首相が「機能性胃腸障害」で入院という記事を見た。
 この病気こそはストレスが最大の要因である。潰瘍のような痛み、食欲低下、胸焼け、吐き気、便通障害、ありとあらゆる消化器の症状が波状攻撃的に襲いかかる。

 あわてふためいて絶対に胃腸をどうかしてしまった!と病院に駆け込んで精密検査を受けるがファイバースコープでも結果は「なんともないなぁ、ちょっと胃の粘膜が荒れてるくらいかな」とドクターから拍子抜けのような話をされる。
 「ま、制酸剤と胃の粘膜を守る薬を出しときましょうね」と軽く言われるが、薬を飲んでも症状が全くよくならない。

 これは機能性胃腸障害(NUDまたはFDと最近は呼んでいる)の典型的パターンだ。おそらく、近代になってストレス社会になりこの疾患は急増したことだろう。
 うつの身体症状に酷似しているため、抗うつ剤なども使わないとよくならないケースも多い。というより、一時的な「うつ状態」がこの病気を引き起こしている可能性が強いのだ。
 だが、機能性胃腸障害だけでは入院するというケースももちろん少ない。一度の処方でよくならなかったら、外来でその患者にマッチする薬を少しずつ替えていって一番よい処方箋を作ればよい。
 
 首相がうつ状態であるのは会見をみてうすうす感づくが、今回、医師団がこの病名を発表したのは「一国の首相がうつ状態とは言えない。武士の情けだ、さっしてくれ」というメッセージだったのではないだろうか。
 もしそうなら、きまじめで几帳面、筋を通す方がうつになりやすいとはいえ、国の指導者としては残念ながら全く失格だったと言わざるを得ない。
 きびしいが、1億2000万人分のストレスを真っ向受けてもびくともせず、ストレス病など発症しない強靱な精神力が必要な職だからだ。また首相の健康問題は外交や国益にも直結する。一人だけの体ではないのだ。歴代の首相たちはそう言う意味ではストレスを感じても何も発症しない「人でなし」(笑)だったようだ。(だが、大平、小渕両氏はやはりストレス病で早世されたかもしれない)
 
 そうはいっても首相がひとたび患者となれば話は別である。
 職責のこと、政治のこと、もろもろの浮き世のこと忘れなくてはならない。頑張っては絶対にいけない。早く復帰しようだとか考えてもいけない。うつ病だとしたら、半端に頑張ってしまうと必ず悪化するし、自殺するという最悪な転帰を患者自ら選ぶこともある。
 
 私も産業医講習会に出席するといつも講師に口を酸っぱくして言われる。
 「仕事復帰をあせらせてはいけません。少しよくなったときが一番危ないのです。」
 もちろんこんなことは首相の周囲も医師団もわかっていることなのだろう、ゆっくり治療に専念してもらいたいものである。
 今回新聞などのメディアでは「投げ出し型無責任辞任」と揶揄しているが、それではあまりにもかわいそうである。心が崩壊する寸前まで頑張り通したのだと理解したい。私としては「燃えつき型辞任」と思っている。
 
 安倍首相お疲れ様でした。


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2007年11月05日月曜日「種としての生存」
 子殺しという愚かな行為は人間だけが行うのだろうか?
 
 やむにやまれぬ無理心中というケースも十分承知しているが、親が子を道連れにしていいものかといつも思う。
 様々な人の死を扱った車谷長吉氏「忌中」という作品を読むと理不尽な死と言うものはこれだけあるのだな、と妙な感心をしてしまう。(気分はあまり晴れることはないが、これは名作です)
 秋田の子殺し公判*のニュースを見るたび、死んでいった子たちの魂は救われるのだろうかとまたまた天に問いたい気分だ。 

 「百獣の王ライオンは空腹でなければ、獲物が目の前にいても無駄な殺生はしない。そのような行為をするものは唯一、人類だけだ」と、このようなことを聞いたことがある。
 
 なるほど、子殺しのみならず残虐な快楽殺人、趣味で行う狩猟など(フィッシングなども含まれるか)確かに他の哺乳類はしないように見える。万物の霊長としてこのようなことは反省すべき行動だろう、これは戒めの言葉だな、と素直に考えていた。 
 
 が、人口に膾炙されているその話は実は真っ赤な嘘である。

 猿の集団は一頭のボス猿に率いられている。ときどき、ボス猿は権力闘争の果てに交替する。闘いに負けた元ボス猿は群れから追い出される。取って代わった新たなリーダーの最初の仕事は元ボス猿の忘れ形見である子猿を殺しつくすことだ。
 
 ニューリーダーはまだ、乳離れしていない子猿を母親から奪い取り、片っ端から殺していく。
 実はこうしないとメス猿がいつまでも「先代の子」育てに没頭し、新しいボス猿に対して発情しないからだという。
 新ボス猿は子供たちを皆殺しにしないと自分の子を残せない。仕方ないことなのだろうが、メスと自分の子が欲しいからといって、子殺しを遂行する猿はさすがにあまり好きになれない。
 が、一見、残酷に見えるこのことは次のように考えるべきかもしれない。

 負けたボスは「弱い」からこそ去っていったのだ。「戦いに弱いボスの子」の弱い遺伝子を受け継いだ子猿はこれから先も必要がない。そこで情けをかけてしまうと、のちのちその集団が弱体化してしまい、グループを脅かす外敵の攻撃を受けたときはねかえすことができなくなる。
 
 自然界の掟は厳しい。ライオンやセイウチなどメスを多数従えて集団で行動する動物たちはボス交代に伴い猿と同じ行動をとる。
 もちろん食べるためではないから、お腹が空いていようがなかろうが関係なく同族の子供を容赦なく殺すのだ。
 また、のちのちに強力なライバルとなりうる先代の子供たちを手にかけるという側面もある。グループの力を保つためと自分自身を守るための行動だが、まるで戦国時代さながら、動物界は文字通り弱肉強食という過酷な環境だ。
  
 歴史をひもとけば、このサル型殺戮は人類ではなにも珍しいことではない。
 
 革命で古代中国の各王朝(特に南北朝以降)が交代するとき、新皇帝は前皇帝につながる血族男子という男子を赤子といえども例外なく殺した。
 そうしないと、交代したばかりの不安定な政情の中、アンチ勢力に旗印として担ぎ出されると強力な対抗馬になりうるからだ。
 史上その殺生を意図的にしなかったのが、北宋太祖、趙匡胤(ちょうきょういん・927〜976)のみで彼は皇帝の位につくとき、前皇帝の一族を篤く保護しただけでなく、子孫末代に至るまで粗略にしてはならないと遺言でも言い残した。
 ちなみに彼は中国皇帝の中で一番と言っていいほどの人情のあつい皇帝であろう。それは彼がさらに、言論によって、つまり政治発言や皇帝に対する諫言などを理由に大臣を殺してはならない、という遺言もあわせて行っていることでわかる。
 彼の後を継いだ歴代の大宋皇帝はこの遺言をかたく守り抜いた。
 これによって、それまでありがちだった「皇帝の逆鱗」に触れたというだけで家来が死刑になるという理不尽なことが宋ではなくなったという。このほかもさまざまな人情的なエピソードを持つ趙匡胤は私のもっとも好きな中国皇帝である。

 話が大幅にずれたが、逆に情けをかけたばっかりに返り討ちにあった典型例は我が国にある。
 
 源平最初の大きな戦いとなった平治の乱のさい、勝利した平清盛が対立した源義朝の一族を皆殺しにせず、当時子供であった源頼朝と源義経の命を救ったため、後年平家は成長したその二人によって壇ノ浦で滅ぼされた。

 この辺は何が正解だか非常に難しい。
 
 平家の立場に立てば、源氏を一度倒した際、徹底的に絶滅しなくてはならなかった。平家が源氏の遺児のために滅亡すると知っていたらどんなお人好しでも必ずそうしただろう。清盛の情けは平家にとっては大迷惑だったことになる。
 
 一方で野生で生きていく草食動物たちは異なった行動をとることを私たちは知っている。
 シマウマやゾウたちが肉食獣に襲われるとき、強力な円陣を組み、弱い子供やメスを中に入れ、後ろ足で蹴りながら集団でライオンやヒョウを撃退する。弱い種族たちは次代を担う子供を守らなければ、滅んでしまうからだ。命がけで力を合わせて立ち向かうその姿は美しくもある。

 人類はライオンのような鋭い爪も牙も、熊のような力も、鷹のような翼も、持たない。武器や道具を持たなければ、一対一で立ち向かった時おそらくシマウマより弱いであろう。そんな人類が霊長になったのは言わずとしれた知恵でもって、欠点を克服していったからに相違ない。
 人類は他の哺乳類と同じく集団や家族で固まって生活する。その集団が生き残るためにはサル型より草食動物のシマウマ型のスタイルがより適応しているのではないかと私には思える。
 弱者を切り捨てるのではなく、守りはぐくんでいく。強い遺伝子をもつ者のみが生存できるのではなく、共同体単位として生き残っていく。現に近代になるにつれ、人類はバリアフリーを唱え、知恵を集めて障害に立ち向かい、弱者を切り捨てない共存社会を作ろうとしてきた。その点からも人類には草食動物の掟の方がぐっとなじむと私は思う。
 
 人間の生存条件は様々だ。
 
 たとえを上げると、アフリカや東南アジアに多い鎌状赤血球症という病気がある。これはヘモグロビンを作る遺伝子のたった一つのコードミスでこの病気が発症する。
 発病すると正常ならドロップキャンディ状に見える赤血球が鎌のように細長くなって、血球も壊れやすく酸素を運搬する能力が低くなってしまう。従って、高地など酸素の薄い所では貧血と同時に著しい呼吸困難になる。また、毛細血管も詰まりやすく、生存に甚だしく不利なこの病気だが一転してマラリアの流行地域だと有利になるから不思議だ。
 実は赤血球の中で増殖するマラリア原虫は鎌状赤血球の中では居心地は悪く、増殖する前に血球が壊れてしまい、マラリアが体を打ち倒すほど増殖できない。だから、正常者がばたばたマラリアで命を落としていく中、蚊に刺されようが平気で(少し貧血はあるが)生き残っていくのだ。
 
 また、エイズウイルスが体内に入っても発病することのない変異遺伝子を持つ民族がいる。北欧に多いこの人たちは「CCR5受容体」というリンパ球の表面の受容体が変異している。この受容体はエイズウイルスが細胞の中に入る「窓」となっているものだが、変異しているとウイルスが入ってこられない。入らなければウイルスは増殖する手だてがないので、発病するわけがないという理屈だ。現在アフリカ南部で猛威をふるうエイズが全世界を席巻しても、この遺伝子をもつ種は生き残るだろう。エイズ出現前から存在しているので、人類がウイルスで滅亡しないよう神の配慮としか思えない。
 
 このCCR5受容体を使ったエイズ薬を各国でしのぎを削って開発を進めている。副作用のない薬ができればエイズ患者には朗報だ。
 
  あるものに強ければあるものには弱い。あるものに有利なら、またあるものに不利。これが自然の当たり前の掟である。
 種として生存するためにはあらゆる災害に打ち勝って行かなくてはならない。遺伝子のバリエーションが多ければ多いほど生き残るには有利だということがおわかりだろう。
 「〜が優れている」という遺伝子ばかりそろえると、未知のウイルス襲来や災害で一網打尽になってしまう。遺伝子の多様性を確保するためにはシマウマ型の子供たちの保護が必要であると考えることが大切ではないだろうか。
 
 近年、政治行政改革を推し進めてきた結果、ムダを省いたのはよかったのだろうが、格差が生じただの、勝ち組負け組だの、能力や収入の優劣で人の価値量る風潮が先鋭化してきたような気がする。大人の社会を見る子供たちの心もそうはなっていないか?弱者や障害者を切り捨てる世の中は思いがけないことでしっぺ返しをくらうだろう。
 どんな重い病気・障害を抱えて生まれてきた子たちも遺伝子の多様性を伝えるためにそこに存在している、と思いたい。
 
 世の中に無数の理不尽な死があるが、無意味な生はない、と信じているゆえに。

*秋田の子殺し公判:秋田で2006年4月に女児が川で水死。その翌月、女児宅の2軒先の男児も水死体で発見。マスコミを巻き込んでのセンセーショナルな事件だったが、女児の母が真犯人とされ逮捕。無期懲役の判決をうけた。

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2007年12月02日日曜日「道長の業病」
この間、切手の図案集を眺めていたら、今から10年ほど前、国際糖尿病学会が日本で行われたのを記念した切手が発売されていたのに気がついた。その図案に糖尿病と密接な関係があるインスリンの結晶と藤原道長の肖像がカップリングされていたのだ。  

 別段その切手は値打ちものではない。

 が、藤原道長こそは知る人ぞ知る、記録が残っている日本最古の糖尿病患者である。切手の図案編集者もなかなかオツなはからいをするものである。デンマークでもインスリンの類似の図案切手があるが、こちらは結晶のみの図案でおもしろみがない。日本のものはメタボな道長をあしらっているのでよりわかりやすいのだ。

 藤原道長は歴史教科書の太字登場者で皆が知っている平安貴族の代表だ。藤原氏栄華絶頂の象徴的人物で三人の娘を次々に皇后にし、その権勢は比べるものなく「この世は自分のものか、満月に欠けたものがないように(完璧だ)」と自ら歌にしたくらいである。
 
 しかし、天をも畏れぬその振る舞いにばちがあたったのか、毎夜の豪勢な宴会がいけなかったのか、道長は晩年、重症の糖尿病に苦しむ。
 当時の記録に詳しくその症状が残っているが、道長は「やたらのどが渇き」水をほしがり脱力感を訴えていた。これは糖尿病の典型的な「渇水飲水」症状である。
 そのうち「二、三尺先の人の顔の区別」がつかなくなり、「昼間も夕方のように暗い」といいだすようになる。明らかに視力の低下が見て取れる。
 糖尿病で白内障が進行したのか、また網膜出血(眼底出血)で失明寸前に陥ったのかわからないが、さすがの道長も糖尿病の合併症は克服できなかった。
 結局、「背中の腫れ物」が彼の命取りになった。最初は小さなおできだったものがみるみるうちに大きくなり「体全体が震えるようになり、腫れ物に針を刺せば血と膿がほとばしる。うなる声は苦しみの極み」とホラー映画さながらだ。そして、苦しみながら高熱を出し、死に至った。背中の皮下膿瘍から感染した敗血症の症状であろう。
 
 糖尿病ではちょっとした菌の感染が拡大しておおごとになったり、また感染そのものを起こしやすい。おできができやすい人や歯周病がひどくて治療している人は医者や歯医者に糖尿病が隠れていないか、必ず訊かれるはずだ。
 道長の時代は糖尿病にかかること自体非常に珍しい病気だった。痛風と並ぶ贅沢病で、ふんだんに美食しないと罹ることすらむずかしい。当時の庶民ではまずお目にかからなかっただろうし、第一、貴族以外もともとの食事が粗食で糖尿病発病の条件とは対極にある。道長は兄や叔父も糖尿病だったらしい記録も残っているから、ひどい食生活に加え遺伝的体質も加わったのではと推測される。
 
 ところで、道長は糖尿病体質に加えてとんでもない楽天的性格だったのではないか?と、ふと思うことがある。
 どんなうぬぼれた権力者でも「満月が欠けてないのと同じくらい完璧な栄華」なんて、もし心から思ったとしても、酔った上でかもしれないが、後世にまで残る歌にしてしまったのはいったいどうなんだ?
 ミカドにたいしても不遜だし、不用意な発言だろう。これを聴いて嬉しがる他の貴族がいるわけがない。おごれるものは久しからず、はまさにこのことである。
 むしろ、満月といえども必ず欠けるものだ、と認識し、後事に備えるのが正常なトップの考え方ではないだろうか?
 が、道長は藤原氏の権勢に満足し、なんら手を打たなかったばかりか、自身の健康管理も完全におろそかにしてしまった。その道長のような、「どうにかなるさ」、体質はこの病気に対して大変よろしくないのだ。
 
 現代の外来でも糖尿病の患者さんに相対するのは大変難しいと感じている。道長ではないが「血糖値が高かろうが、何いってんだ。なんの症状もないぜ。オレだけは絶対大丈夫だ」となんの根拠もなく信じている方が多い(ような気がする・・・まじめな患者さんにとっては失礼だが・・・)
 
 人類は飢えと常に闘ってきた。現代を除くどんな時でも、普通の庶民が腹一杯食べて安楽に暮らせる時代は全くなかったといっても過言ではない。そのため、飢餓を避けるために日本の気候では食料が比較的安定供給される米作を推進し、また数年に必ず襲いかかる飢饉に耐えられるだけの飢えに強い遺伝子を持つ種族が生き残ってきた。ぶっちゃけ、飢えに弱い人たちは死に絶えたと言い換えてもいい。
 後世のその「飢えに強い」子孫の我々日本人はその「倹約遺伝子」といわれる省エネタイプの遺伝子を持つ人が多いことが知られている。これは体力維持のためにすくないカロリーで体を維持できて、逆に少し過食するとすぐに太るタイプだ。
 飢餓を耐える力を持つ、は劣悪な環境でも生存には適しているのだが、すなわち飽食に対してはすこぶる弱い、という諸刃の剣になる。
 
 かくして、わずかなコインで一日の必要エネルギーをはるかに超越するファーストフードがふんだんに食べられる現代では、体内にのべつ流入する過大なカロリーを消費できずに、体が悲鳴を上げて糖尿病になってしまうことになった。成人の6人に1人が糖尿病予備軍とされる我が国の健康・食料事情はやはり病んでいると言わざるを得ない。

 糖尿病の人はおしなべて体重過多である。私も最近そのメタボにまっしぐらであった。これではいけないし、また患者さんに対して医師として説得力がないので、運動とダイエットを始めて減量した。
 なんとか自分でダイエットしてよくわかるが、これだけ食べ物が氾濫している世の中で「もう少し食べたい」という欲求を抑えるのは並大抵の努力ではない。食べるものがない時代は、ないからあきらめがついた、が、現代は捨てるほど食べ物があるのだ。
 患者さんに「少し残しましょう」と指導しても、必ず「もったいない」という気持ちがもたげるのは痛いほどわかる。ご飯やおかずを残すことは「いただきます」と声に出してお百姓さんに感謝しなさい、と骨の髄まで教え込まれた我々の世代にはかなりな抵抗が生じる。
 今、大氾濫している賞味期限切れの張り替え詐称問題は根本にはせっかく美味しく作ったのに「まだ捨てるには惜しいなぁ」という製造者の素朴な感情なのでは、と思わず擁護してしまうほどだ。(許されることではないし、単にコスト削減のためであろうが・・・)
 そして、乱立している外食産業においては食べてくれるお客さんに満腹や満足を与えないとリピートしてくれないので、残されてもいいから多めに量を盛りつける。かくして、メタボの再生産が生じるわけだ。
 
 食べ物を残すのは抵抗がある、さりとて痩せたい。このジレンマを解決するために私はさんざん悩んだあげく、今でも実行しているのは、定食類でも「ご飯を少なくしてください」と注文時に宣言することである。ライトメニューがある場合は迷わずそれを頼む。これなら、残してしまう後ろめたい気持ちがなくなるし、カロリー減だし一石二鳥だ。
 それで午後お腹が空かないのか?と言われれば、それは慣れである。当初はかなり目が回っていたが、いまはへっちゃらになった。
 それに、腹の皮を突っ張らせなくなったおかげで午後に眠くなることがなくなったことが一番の利点だ。皆さんも昼飯後猛烈な睡魔が襲うことがあると思うし、私もかつてそうだったが、それは腹一杯過食しているのではないかと私は思っている。
 
 糖尿病や高脂血症などは自助努力がないと決してよくならない。たとえば薬で血糖値を下げようとすると、必ずお腹が減るので、食べない訓練をしていない人は血糖値を上げようと無意識に必ず食べ物に手が出てしまい過食になる、ということがおわかりになると思う。かくして、下がらないので薬が増える、またまたお腹が減る、の悪循環である。
 
 どうにかなる、とは決して思わないでください。絶対にどうにもならないのだ。天は自ら助くる者を助く、まさに至言である。
 満月は次の日には必ず欠けるのであり、他の人に訪れる悲劇は同じように自分にも降りかかる。
 道長のような悲惨な死に方をする糖尿病患者は少なくなったもしれない。事実、道長以外、前近代の著名人での糖尿病患者は本当にいないのだ。
 
 だが現代はどうだろう。糖尿病のコントロール不良で腎不全になり、毎年9000人以上の透析患者が増えている(交通事故死の数より多い)というのは、ひどい糖尿病でも「オレだけはどうにかなる」、と思っている人が多いことの証左ではないか。
 一部の糖尿病(遺伝性や感染性の)以外の糖尿病が自助努力が足りないナマケモノの病気だと認識が世間にあまねく知れ渡れば、これらの病気は近い将来医療費だってカットされるおそれは十分でてくる。米国は肥満も自己管理ができない失格者とレッテルを貼るし、かの国をあがめている日本ならいつ「自己責任の病気には医療費を使うことを禁ずる」と言い出してもおかしくない。
 
 努力がいつも報われるとは限らないが、努力しないものが報われることはない、とは私も大学受験期によく講師に浴びせかけられたはっぱだが、このことは「絶対ということがない」医療にもよく当てはまる。
 糖尿病をはじめてとして、成人病は絶対に克服できる病気ではないが、手なずけておとなしくすることは可能であるし、それが究極の目標であり、莫大な医療費を食いつぶす糖尿病末期患者を減らすことが限られた医療費を使う万人の幸せにつながるのではと思っている。


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2008年06月04日水曜日「十人十色?」
  最近、ちょっとしたことだが、気になることがあった。風邪をひいたお子さんを連れられたお母さんの話すのを聞いた時のこと。
 「この子、昨日から鼻が出まくりで、『みどりっぱな』になってきたんですよ」
 
 ん?みどりはな?
 
 私の若年時代は色のついたいかにもどろどろした鼻水は「あおっぱな」と呼んでいた。確かにあれは色的には青というより、黄色がかった緑に近く、青いという要素は少ない。だから、緑っぱなというのは色彩学的には正しいのだろう。
 しかし、日本では昔から青と緑は混同していたきらいがある。というより、緑は色でさえなかった。
 
 元々、古来は白、黒、青、赤の4色しか認識することがなかったらしい。いささか強引だが、この四色は特別に「形容詞」になりうるのだが、(白い、黒い、青い、赤い)その他のどの「色」も形容詞にはならない、ということがその証拠らしい。なるほど「黄色い」とはいうが「黄い」とはいわないな。他の色も確かにそういう法則は成り立っている。
 余談だが、四色に黄色を加えたものを五色(ごしき)といい、陰陽五行思想の基本色となった。自然界はすべて5つのものからできているという思想である。
 江戸幕府創設時、周辺各地の不動を5つ選び五行思想にのっとって江戸城鎮護としたのが目白、目黒、目青、目赤、目黄不動尊だ。もともと四方鎮護が一般的だったから、目黄はなかったという説もあるが、それなら基本四色に戻りすっきりする。閑話休題。
 
 そういったわけで、自然にある緑色はすべて青で代用したのだそうだ。確かに自然界の空と海は青が充満しているが、そのほかは緑がきわめて多い。にもかかわらず、青葉、青野菜、あおむし、と呼んでいた。どう見たってこれらは緑色である。
 
 近代に登場したはずの交通信号だってあれは青ではないだろう。普通の感覚ならあの「すすめ」は緑色だし、外国では間違いなくgreen lightだ。ごく最近はブルーレイの発光ダイオードの信号機が増えつつあるから、これは青色にやっと近くなったようだが。
 
 ところが、緑の黒髪は?と思いついたとき、ハタと考え込んだ。これだけはちょっと異質ではないだろうか。たしかこれは青でも緑でも関係ないようにみえる。
 昔なら、ちょっと疑問に思ったことでも、ぶん投げてそのうち忘れてしまったものだが、現在はパソコンを立ち上げていさえすれば、頼もしいググりとウィキがある。早速調べてみた。
 ほんの数分の検索で「緑の黒髪」の疑問が解けた。みどりの黒髪は正確には碧(みどり)の字を当てるそうだ。この碧は「みどりご(嬰児)」の意味と同じで「若々しい」「みずみずしい」という意味を持っている。だから、そういう若くてつややかな黒髪をそうよんで、当て字で「緑」になったそうだ。なるほど勉強になった。それにしてもパソコンの検索は楽だ。これでは百科事典が売れないわけだ。
  
 色の付いた名称とはかくもいい加減ではあるが、光線の波長で絶対的な色彩は決定される。たとえば赤は700nm(ナノ・メートル)の波長の可視光線だ。
 この純正赤を人が「赤い」と感じているかどうかは、どのような検査をしても実は他人(外からといいかえてもいい)には絶対にわからない。
 
 ここからはちょっとややこしい話になってしまうので、ゆっくりおつきあい願いたい。
 
 絶対音感という言葉がある。楽器でもなんでも音の出るもの(救急車だっていい)を聞いたとき、音階が瞬時にしてわかる人々がいる。この能力を絶対音感といい、モーツアルトを始めとして、天才的な音楽家が持つ異能の一つとされているが、出現頻度としては割と多く、音楽に関係のない仕事の方も結構いらっしゃるとのことだ。
 和音の構成音も即座に言い当てることができるらしいので、ピアノでジャーンと鳴らされてそれが音楽の試験となっていた小学校時代全く聞き分けることのできない私には縁のない能力だった。
 それはさておき、この場合、音の入力と出力が全く等しく理解し、表現できる能力と言い換えることができる。電卓で計算式を入れると必ず正しい答えがでるように。さしずめ、音痴というのがこれに反対のものと理解していい。
 
 しかし、これが視覚となると話が異なってくる。
 
 リンゴは赤い、その赤い色は誰が見ても同じかというとそうではなく、もしかしたらあなたはみんながいう「青」のことを「赤」と認識しているかもしれない。
 ははーん、色盲のことを言っているのだろう、と思われるかもしれないが、そうではない。色盲検査でも全く引っかかることのない「健常人」での話だ。
 
 リンゴの色は誰がなんと言っても赤だよ、じゃあ、他の赤い色をあげてみろって?血の色、ニワトリのとさか、ほらこの、絵の具の色、と言ってあなたは絵の具箱から「あか」の絵の具を取り上げる。ね、みんな赤いし、青と全然違うよ。そう、その通りである。
 しかし、あなたが生まれてからずっと「この色」を赤だと教え込まれているから、あなたはこれを赤だというのだ。血だろうが、とさかだろうがこれらに光が当たれば同じ波長の光線を跳ね返す、だからあなたの視神経には同じ刺激が生じる。「赤」の属性を持つ同じ色に感じるだけで、これが皆の言う「赤」だとは絶対に証明できない。
 だって、赤は暖色だし、青は寒い色だし、みんなが言うのと同じ感覚を受けるよ。それも、そう教えられているから思うだけで、いや俺には赤は寒い色に感じるなぁと思う人だっているはずだ。その人は皆の言う紫や緑に見えている色を「赤」と表現しているかもしれないし、だからといって、それを証明する方法はない。哲学風に考えるならば、「すべてを疑う」デカルト的態度がこの場合最もよろしい。

 なぜこんな言いがかりをつけるかというと色というのはものすごくいい加減であるからだ。いい加減なのは色でなくそれを感じる人間なのだが。
 
 「ベンハムのコマ」というものがある。白と黒のモノトーンのコマだが線状に塗り分けられておりこれを回すと、表面に赤や青や緑、紫の筋が見える。そこに存在しないはずの色なのになぜか見えてくるし、人によって見えてくる色が違う。
 単色光の下でも見えることから、いわゆるプリズム現象で反射された光の色が分解されたというわけでもない。この現象を錯視と呼ぶが、この理屈は物理学的・医学的に実はわかっていない。いえることは人の眼が作り出す幻想の色であることは間違いない。このありえない不思議な色で各人が「見えている」ものがみな違うことの証左だ。

 眼とその情報処理機関である脳には色の心理的補正というメカニズムもあることがわかっている。
 
 夜になると赤い物が見えにくくなるが、これは減光されると赤を感じる細胞が他の細胞より最も機能低下するためだ。さて、トワイライトのような減光した状態で黒く塗ったリンゴの模型と同じく黒く塗ったキュウリの模型を見せると、リンゴの形の方がより赤黒く見える。リンゴが赤いということを知っているから、心理的に色がついて見えるのだ。
 錯視や心理的補正をもってしてもこれだけ「色を感じる」という視覚はあてにならない相対的なものであることがおわかりだろう。10人いれば10人とも見て感じている色は違うといえる。これが本当の十人十色だ(違うか)

 もし、あなたが認識している色をそのまま正確にアウトプットできるモニタがあってそれを皆が見ることができるとしたら、仰天されるかもしれない。
 なんなんだ!?こいつのこの色彩は!狂ってる、と感じる人もいるはずだ。
 だが、その叫んだ人にもモニタをつなげてその人の脳内風景を皆が見たら、さらに別の人が驚きあわてふためくだろう。
 そういうモニタがない限り、皆が「同じ色を違う色にみている」ということは永遠に知る方法がない。繰り返すが700nmの波長の色を「あか」だと教えられているから、全員の意見が一致するだけなのだ。
 
 デジカメだって、同じオートモードで撮っても機種やメーカーで微妙に明るさ、色合いが違う。自然光の中や、蛍光灯の下では、色合いがさらに異なるが、人間の眼はもっとだまされやすくて、デジカメが正確に記録した色とできあがりが違って見える。だから、いろいろなモードが用意されているのだ。

 人間は生まれながらにして、レンズにフィルターをかけられていると言っていい。それも個人個人でみな違うフィルターだ。もし、記憶を残したまま、脳移植ができたとすると、過去の自分が感じていた色がまるで違って見えることがあるかもしれないし、人によっては耐えられないほどの苦痛を感じるかもしれない。まあ、それこそ絵空事だろうが。

 「個人で色が違って見えているかもしれないということはなんとなくわかった。だが、それがどうした?」と言われたら、医学的にはどうってことはない。そうでないかもしれないし、何の役にも立たず、誰も研究しないし、おそらく永久に決着はつかないだろう。
 
 私はこういうとりとめのないことを考えるのが割と好きだ。そしてそれが確認されたら、どうなってしまうだろうと、ぼんやり考えることも多く、ひとりほくそ笑んでしまう。

 脳移植を受けて、あおっぱな、を見たら「ああ、本当に青いぞ。本物のあおっぱなだ」なんて感じる日が来るのであろうか・・


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2008年09月08日月曜日「夢の再生細胞」
 大学医局時代のことである。他愛もない無駄話を仲間内でする際、こんな話題が出た。
 「どこかガンに罹らなくてはならない、としたら、どのガンがいい?」
 
 ガンが死因のトップに躍り出て久しく、3人に一人は癌死する世である。実際に闘病されている方には不謹慎なことだが、ガン手術を多く手がけていた時代はこのような不謹慎なオフレコ発言もしていた。
 あるものは甲状腺をあげており(もっとも予後のよい癌が多い)あるものは皮膚(外科医だし、診ればある程度わかるし発見が早いだろうから、)をあげた。
 早期ガン・・・おいおい、そいつは反則だ、場所じゃないし。

 予後の悪い臓器ガンは当然のごとく不人気だった。取ってしまった臓器はよみがえることはない。ガンに冒された臓器を取り出すたびに、「なんとかならないものか」と悲嘆にくれることも多かった。

 外科は除去(悪いところを取り除く)から、再建(残った組織を集めて、元の臓器の能力に近づける)。そして、移植(悪いところを取ったあと、別のものから同じ臓器を持ってくる)へと移り、最後は再生医療へと続く。
 ガンになることはしかたがない。それならば同じ自分の細胞を原料にして、臓器に育ててそれを移植する。そんな夢の治療が近々できるかもしれない。それが話題の再生医療だ。
 そしてその最大のカギとなる細胞が日本から開発されたことはご存じだろうか?

 プラナリアというヒルに似た原生動物がいる。
 山本文緒の直木賞受賞作にも「プラナリア」というもろ同名の小説があるが、その作中でもプラナリアの特異な性質に言及している。すなわち、それは「頭」を切ったら、頭から足が再生する。逆に切り離された「足」からは頭が再生するという信じがたい生物界一の再生能力だ。
 
 八つ裂きならぬ、100の断片に切り刻んでも、プラナリアが100匹再生した、という報告もあったくらいだから、その破天荒さは驚きを通り越して背筋すら寒くなる。
 植物などでは接ぎ木や葉っぱを一差し、土に植えるだけで、もとの立派な木に再生することはよくある話だが、動物でのそんな能力はヒトデやトカゲのしっぽくらいしか思い浮かばない。
 高等な生物では、一度発達した臓器は二度と再生しない。そのトカゲですら胴体をまっぷたつにしたら、死んでしまうだろう。第一、どんな生物も頭を切り離したら、切り離された方は絶対に死滅するはずだ。
 
 プラナリアは驚くべきことに脳も再生する。切断した部分にどうして脳がないのに脳が再生し個体に戻るのか、また、脳がついているところからどうして脳以外の組織が再生するのか。
 
 その答えを出したのが、日本人研究グループだった。和光市にある理化学研究所で2003年に発表されたのがプラナリアの再生細胞から見つけた「NDK遺伝子」である。
 
 プラナリアには「どんな臓器にもなることができる万能細胞」が全身に分布している。研究者はこの細胞が切断面に集まり、ある信号でもって、「どのように再生すべき」かを決定すると推測した。
 その信号は遺伝子が作るタンパク質であろうと考え、分化に関わる30ほどの遺伝子を選択、一つずつ、それらの遺伝子の働きをオフにした人工プラナリアを作って、観察したところ、ある遺伝子の働きを押さえた(このような実験生物をノックダウン、またはノックアウトと呼んでいる)プラナリアが切断されると、すべての断面に脳が出現した!(気持ち悪い!)
 脳だらけのプラナリア・・・、ちょっとオカルトっぽい九頭竜ヒドラみたいなプラナリアの誕生である。
 
 この切断面に集結し「脳を一つだけ」に制御している働きをする遺伝子を「NDK遺伝子」と名付けた。
 ノウダラケ・・・日本語をローマ字表示にしたNou-Dara-Keの頭文字をとった冗談みたいな名前であるが、海外でもフルネームである「nou-darake遺伝子」で通用するので、日本人研究者のユーモラスぶりもほほえましい。
 なんでもかんでも、製品名や部品を英語で表示する電化製品やパソコンメーカーもぜひこの日本語精神を見習ってほしい。
 
 このプラナリアで主役を務める万能細胞をヒトも持っているのはご存じだと思う。
 というか、持っていた、と過去形で表現すべきだ。
 
 すべてのヒトはたった一個の受精卵から発生する。卵が分裂すると胚(はい)と呼ぶが、その胚細胞がプラナリアと同じで、どんな臓器にも変化できるが、数回分裂を繰り返すと何にでも化ける全能性は失われてしまう。全能性を保った状態で分裂させず人工的にコピーさせたものがES細胞(エンブリヨニック・ステム=胚性幹細胞)と呼んでいる。
 これまでこの細胞をなんとか再生医療に使えないか、と各国の研究者がしのぎを削っていた。つまり、臓器移植の対象者にはその臓器をES細胞から育てて、臓器移植の材料にするのだ。重症糖尿病の患者にはインスリンを作る細胞に変化させてそれを移植する。ES細胞はあらゆる臓器に変化するオールマイティ細胞(ただし、胎盤には決して変化することはできないが、それ以外は可能だ)なので夢ではない。
 
 しかし、このES細胞研究には大きな壁が存在した。
 
 一つはたとえ自分の卵・精子を使ったとしても、相方が必要なので自分と全く同じ遺伝子を持っているはずがない(遺伝的には親子にあたる)ので「非自己」であり、移植できたとしても拒絶反応はさけられない。(親子間移植と同じである)
 現在は強力な免疫抑制剤があるので、一般の臓器移植と同じでなんとかクリア可能だが、もう一つ倫理的な問題が立ちはだかった。
 ES細胞はどうしたって初期胚を崩して、バラバラにして培養クローン化させなければならない。初期胚とは受精卵に他ならないから、それを崩すというのは堕胎法=中絶と同じである。
 
 ひとたび受精したらそれは生命である。聖書が定めている宗教的解釈(カトリックやユダヤ、イスラム)では中絶を「殺人」と認めているから、ES細胞研究も中絶と同列のことになる。
 アメリカ上院が通過させた「ES細胞研究緩和」をブッシュ大統領が今年4月拒否権を施行したのは、この宗教的バックボーンがあるからだ。
 欧米でもやむにやまれず、隠れて中絶しているのは承知だが、表だって大統領が賛成できないのは保守派の多い共和党支持者から突き上げをくらうので政治的にも共和党の彼は「ES細胞拒否」を表明するしかない。
 
 中絶天国である日本から見たら、なんと前近代的なことか・・・と笑ってはいけない。形はどうあれ、すべての行為において聖書に宣誓をするユダヤ教由来の宗教国は聖書に記してあることが絶対だからだ。現ローマ法王ベネディクト16世はいろいろなカトリック国を訪問するたびに「中絶は殺人」と力説している。
  
 そんな欠点を克服する希望の星が去年日本人研究者により見いだされた。
 
 どんな身体の細胞も元はES細胞が形を変えたものといえる。変形し終わった細胞はもう決してES細胞に戻ることはないし、戻すすべもない。しかし、細胞の核に収まっている染色体=遺伝子の集まりはESだろうが、皮膚細胞だろうがどれもみな同一である。それではなぜ皮膚は皮膚、心臓は心臓にしかなれないのだろうか?
 実は遺伝子は旗信号ではないが、遺伝子のどの部分がオンでどれがオフ、というスイッチが入ってたり、切れていたりしていることで、その細胞の変化が自動的に決まる。
 それは好き勝手になっているわけがなく、細胞の変化をコントロールしている「ノウダラケ遺伝子」のようなものがきっとあるはずだと、考えた研究者が試行錯誤を繰り返し、ついに鍵となる4つの遺伝子を見つけた。
 最初は皮膚の細胞で始めたが、現在は胃や腸の粘膜細胞でも可能だと報告されているが、細胞にこの遺伝子を組み込むことで、驚くべきことにその細胞の遠い先祖である万能細胞に戻ってしまうのだ。
 
 この4つの遺伝子を京都大学山中教授のグループが発見したので「Yamanaka factors(山中因子)」と呼ばれている。その細胞は人工多能性幹細胞(iPS細胞)と名付けたが、今まで細胞名はすべて頭文字をとって大文字で表記するのが常だった。どうしてiPSだけ小文字なのだろうか。
 山中教授は、学会でそのことについて質問を受けたとき
 「ESに近づけたくて、なるたけ2文字に近くしたかった。それに、今、流行っている小文字のアイに影響を受けなかったわけではない」
 と答えた。
 質問者は、そりゃ、iPodのことですよね、教授!とツッコミを入れたかっただろうが、笑いをとっただけで誰も確かめなかったそうだ。
 でも、いいセン行ってるぞ、日本人研究者!
 ユーモア精神を忘れず、このまま突っ走ってほしい。(山中教授が名付けたとおり、もちろん世界的にiPSで通用する)

 このiPS細胞はES細胞の二大欠点を克服している。
 移植されたい人のどこでもいいから細胞を一つとってきてiPS細胞を作るのだから、自分のコピーである。したがって、拒絶反応が全くない。
 また胚を壊さなくてすむので、倫理的、宗教的問題はクリアできている。全く万々歳である。
 世界の耳目はES細胞からiPS細胞へなだれをうってしまった感があるが、ことはそうそう単純ではない。
 
 山中因子のうちの一つ、c-myc遺伝子は実は以前から「癌遺伝子」と言われており、事実、ある種の癌ではすでにたくさん見つかっていた。
 この遺伝子を人工的に導入されたiPS細胞を胚盤胞に戻した実験マウスは生まれた後約20%に発癌を見た。
 これはきわめて高率である。
 このままではたとえ臓器に育っても、患者に移植したら発癌した、などと考えなくてはならず、まったく実用にはならない。
 万能細胞と癌細胞はニアミスの関係か、あるいは「兄弟」のようなものかもしれない。
 山中教授はこのc-mycをはずした残り3つの鍵遺伝子でiPS細胞を作った、と改良案も発表した。すると先祖返りをするためには純粋には3つでよいとなるが、作業効率は100分の1まで落ちたという。これでは大量に元細胞が必要となる。
 もともと細胞が分裂するエネルギーは癌遺伝子の持つような旺盛な分裂能力を必要としているのであろうか?
 
 造物主の作った暗号は人間が解読しようとすると、いつもするりと体をかわすようだ。遺伝子で夢の力を得ようとすると、そのガードはきつく幾十にも罠を仕掛けてある。
 
 人類はしかし、ここまで細胞の仕組みに肉薄しているので、すべてを明らかにするのはそう遠くないのでは?とも思うし、いやエベレスト登頂でも頂上に至るラスト100mがもっとも困難できつい、とも聞く。
 さて、どっちなのだろうか。
 浅学非才の私には皆目見当がつかない。ただ、考えられる障害を克服した先にはiPS細胞にはバラ色の未来が待っているかもしれないという期待はいやがおうにもふくらむ。

 このようなことから、手塚治虫氏の名作(ホントに何度も手塚漫画が出てきて恐縮ですが・・・)「火の鳥・未来編」でなにやら、思い出すことがある。
 
 そのストーリーを紹介すると、核戦争に生き残った最後の人類であるマサトは火の鳥によって不死にされる。マサトは数千年の孤独に耐え、同胞を捜し求めるが世界で生命は何一つ残ってないことを知って愕然とする。
 しかし、マサト自身が生物を作らなければ、この地球に世界は再生しないことを理解し、困難な仕事を成し遂げようと決意する。
 マサトにとって、時間は無限にある。マサトは科学者猿田博士の残した研究ドームで人工生物を何度も何度も作ろうとする。が、形こそは動物に似ていても、培養液から外に出るとすぐに崩れ果ててしまう脆弱な生命もどきしかできなかった。

  「何かが足りない」
 再びマサトは絶望する。しかし、火の鳥の「生命は作るものではない」という示唆によってマサトは悟る。
 
 マサトは核戦争からさらに数万年経って浄化された海へ失敗作となった生命の元をすべて流し、その末を見守った。
 マサトはもう何も手を出さなかった。じっと見守るだけだった。
 タンパク質の固まりだったその命の萌芽は数億年を経て、海でプラナリアのような下等生物が生まれ、よみがえり、やがて魚類、そして・・・
 
 手塚氏は人類が小賢しい知恵で神と同等に生命をあやつろうとすることの危うさを本能的に知っていたのだろうか?この火の鳥・未来編が手塚氏によって描かれたのが1967年というから恐れ入る。
 
 そのちょうど40年後、iPS細胞が世に出たわけだが、手塚氏がご存命ならどうコメントされるか大変興味深いところだ。

*iPS細胞:この発見により山中教授は2012年ノーベル医学生理学賞を受賞した。おめでとうございます!


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2009年01月03日土曜日 「百匹目の猿」
  あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

  「百匹目の猿」という話がある。

 宮崎県の幸島は猿の集団が生息する小さな無人島である。猿の生態を調べるための研究所がありそこに人は常駐しているが、人間の居住者はいないらしい。
 研究者の観察によると、そこでの猿は芋を食べるとき、泥を手で払ってから食べていた。しかし、ある猿がある時芋を洗ってから食べるようになった。泥つきの芋よりはるかにおいしいと感じたのか、まず家族内、グループ内にイモ洗い猿が増え始めた。そして、いつしか全島にこの風習(?)が広まっていった。ここまでなら、技能獲得して広まったというありふれた話で不思議でも何でもない。
 
 ところがほぼ全島にイモ洗いが流行したと思われる頃、幸島から200kmほど離れた大分県の高崎山に生息している猿たちが芋を洗ってから食べるようになった、と報告された。幸島と高崎山にはもちろん猿の交流はないばかりか、時期的に見ても、幸島での流行の広がりがピークに達した際、その思念が空中を飛んでいったか、テレパシーによってもたらされたとしか思えない、とされた。
 これを英国の動物学者ライアル・ワトソンが報告したことで、全世界にこのイモ洗い猿のことが知られるようになる。
 ワトソンは「ある行動、考えなどがある一定数を超えると、全く接触のない同類の仲間にも伝播する」と唱えた。そして、彼が霊長類のグループなら、「その事象は100匹を超える頃になると起こるのではないか」とブレーク・スルー・ポイントを推定したために、「百匹目の猿現象」と呼ばれるようになった。
 
 この話は非常に興味をそそるようで、またユングの集団心理における現象およびシンクロニシティー(共時性)に通ずるところもあって、「人間にも起こりえるのではないか」と考える人類学者も多かった。日本でも船井幸雄がこのことを取り上げて自説を展開した著述がある。

 答えを言ってしまうと落胆されると思うが、現在この説を本気で取り上げる研究者はいない。
 
 というのも、ワトソン自身が「幸島の猿の話はでっちあげ」と後に自白しているからだ。
 ワトソンが最初、芋を洗う猿の存在を引用したというのは世界的霊長類学者の河合隼雄の論文だった。それは高崎山の猿の行動について詳細に調べたものだが「数頭の猿が海水で芋を洗って食べるようになった」というそっけない報告で、その行為が全山に広がったなどとは表されておらず、まして幸島の猿との結びつけはいっさいなかった。
 ワトソンは河合の論文を読んで、さらに近くの幸島で猿が隔絶された空間で居住しているのを知って、「幸島の猿」話を作り上げたに過ぎない。

 この説が一人歩きし始めて、超常現象にあこがれ、それを信じたい方が多いのかネットで「百匹目の猿」と検索すると瞬く間に数万件ヒットする。まったく罪な話である。
 
 研究は「先に結論ありき」で始めると必ずどこかで無理が生じて、自分の思い通りの結末に誘導したくなり捏造の誘惑にはまる。捏造される話は常に寓話的で、いくらでも想像力でカバーでき、人が一発で飛びつくようなおもしろさとわかりやすさを備えている。故に燎原の火のように広がるわけだ。

 私はこのような「百匹目の猿」現象はありえるとさえ思っているので捏造は惜しい限りだ。インチキのレッテルを一度貼られた科学仮説はもう二度とかえりみられない。
 
 私がありうるというのは、この場合、空間を超えて思念が伝わったなどと言うテレパシーなどを信じているのではなく、環境さえ整えば、同じ種族なら同じような思考回路を持っているので、同時期に新たな手法にたどり着くことはありがちな話なのではないか、ということだ。

 たとえば、ミステリの黄金時代(1930〜1950年代)に活躍した英国のアガサ・クリスティと米国のエラリー・クイーンがいる。
 クリスティは「そして誰もいなくなった」という名作をものにしているが、そのトリックとなる骨子部分と全く同じプロットでエラリー・クイーンが同時期新作を執筆していた。
 先に完成したクリスティの刊行を知って、クイーンは「天を仰いで」ほぼ書き上げていた作品をボツにしたそうだ。もちろん、大西洋を隔てて二人が連絡を取り合っていたわけではない。まったく偶然の一致で、クイーンが先に発表していれば、クリスティが「誰もいなくなった」をお蔵入りにしたことだろう。ミステリ界ではこのようなことはたまに見かけるし、電話を発明したベルの話も似たようなものである。
 
 アメリカの発明家イライシャ・グレイはベルと同時期電話を発明していたが、特許申請が2時間ベルより遅れたため、その「電話発明者」の名誉を受けられなかった。もちろん二人は共同開発ではなく、全くの偶然である。
 
 医学界でも特に最近は研究のスピード化が激しく、「いかに先に論文で発表するか」で先駆者になれるかどうかが決まってしまう。以前、コラムでも紹介したが、iPS細胞という夢の万能細胞をヒトの細胞で作った山中教授と全く同じ日にウイスコンシン大トムソン教授が「同じ」論文を載せて発表をしている。
 トムソン教授は1998年ヒトES細胞を世界初作ったこの領域の第一人者である。アメリカではヒトES細胞研究にきびしく、ためにiPSに研究をシフトさせてきた。(「夢の万能細胞」参照)iPS研究においては山中教授と並んで世界の「ツー・トップ」であろう。おそらくいずれノーベル医学生理学賞候補に上げられるだろうが、同時受賞も十分ありえる。
 
 よく、エジソンがいなかったら、映画も電灯もなく・・・という話をする方がいるが、そんなことは絶対にないと断定できる。文明の思考がそのレベルに達したら、エジソンがいなくても、かわりの誰かが発明したことだろう。ベルがいなかったとしてもグレイが2時間遅れで電話を作っていたように。

 話はがらっと変わるが、

 ヘリコバクター・ピロリ菌という胃の中にすむ細菌がいる。これは胃炎・胃潰瘍果ては胃ガンの原因になるのではないかということで、衆目を集めている。実際、胃ガンの切除胃からは高率にピロリ菌が見つかり、除菌(菌を退治)した後に胃ガンが発生することは少ない。少なくとも全部ではないが、胃ガン発生のかなりの役割を果たしているのではないか?と研究者の意見は一致している。したがってピロリ菌がいることが確認できれば、これを除菌することが胃ガン予防のもっとも主力になるのではないか、という式が成り立つ。そこで一斉にこのピロリ退治が始まった。
 
 余談だが、胃潰瘍や胃炎のないピロリ菌感染者に「ヘリコバクター・ピロリ除菌薬」を保険治療できないのだ。ドックや健康診断と同じで「病気予防」のために健康保険は使えないという理屈らしい。私としては大いに文句のあるところだが、今回は話がそれるのでそのつっこみはまたの機会に。閑話休題。
 
 さて、除菌薬の主力となるのは2種類の抗生物質である。除菌治療が始まった頃は9割以上の除菌率を誇っていたが、ある時から除菌率がみるみる低下し、薬の量を増やしても6割くらいになってしまった。そこで現在は新たな抗生剤を使うようになり、こちらで除菌するとほぼ100%近い力を持っている。が、これもそのうち除菌率は低下していくだろう。それが抗生物質の宿命なのだから。
 
 抗生剤に耐える力を獲得する能力を「耐性」と呼ぶ。これは微生物の特徴でウイルスも同様に耐性を獲得する。使えば使うほど、その耐性をおこしやすくなり、困ったことに「百匹目の猿」のようにある時いきなり地域を越えて蔓延するのだ。
 
 私は風邪だろうと診断したときは極力抗生物質を処方しない。あたりまえだが風邪を引き起こすウイルスには全く効かないばかりか、ありがたくない「耐性」を獲得しやすくなるからだ。いざ抗生物質を使いたい、その時に耐性菌に冒されていたら、もはや手だてがない。
 
 ピロリ菌が耐性を獲得していった原因の一つに普段安易に処方された「風邪薬」の中に抗生剤が混じっていて、少々菌を減らしたところで、抗生剤に打ち勝つピロリ菌が残り育ってしまった、と考えてもおかしくない。
 
 「こんなにつらいのに抗生剤を処方してくれないんですか」と言われるときもある。風邪で辛いのは抗生剤で倒せる菌が暴れ回っているのではなく、ウイルスを倒そうと体が熱を発しているのだが、どうも理解されているかどうかわからない。そして、不服な方は抗生剤をもらいに他の医療機関へ行かれるのだろう。
 細菌界に「百匹目の猿」現象があるかどうか、それはわからない。しかし、いつでもどこでも風邪をひくたびに抗生剤を飲み続けるその行為がとんでもない「百一匹目の猿」を引き起こさないだろうか、と私は危惧している。
 
 インフルエンザの特効薬で物議を醸している「タミフル」は来るべき「新型インフルエンザ」に対しての兵器として国家的規模で備蓄をしている。しかし今年アメリカを中心として、タミフル耐性のA型インフルエンザが流行しているのだ。インフルエンザはお互い混じり合って、また新たなインフルエンザと進化する。もしも、このタミフル耐性インフルエンザと新型インフルエンザが合体したら・・・と思うと、非常におそろしい。
 
 アメリカ以上にタミフルを使用している我が国にもいつ「百匹目の猿」現象が起こるかもしれない、それはもしかしたらタミフルを使いすぎることによって起こる人為的なものかもしれないが。
 
 
 おまけ:家族が皆インフルエンザにかかったので、まだ自分は大丈夫だけど・・・仕事休めないんです。タミフルをください、と言われても、予防投与はできません。上のような趣旨からです。ご了承ください。

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2009年05月20日金曜日「マスクは誰のため?」
 指を骨折してしまった。
 左の人差し指だが、湿布し固定している。こんなに不便なことはない。来院される患者さんにもお大事に、と言われてしまう始末である。全く情けない。
 
 以前、風邪が長引いて、このコラムでも「何もする気が起きない」と泣き言を書いた覚えがあるが、今回体は一応元気であるくせに、やはり憂鬱で気が晴れない。みっともないことだが、私は病気やけがに(および逆境に)すこぶる弱いと言えそうだ。
 
 左指でよかったですね、と慰められることも多いが、実は私は「左利き」なのだ。
 字を書くことや、箸を使うことは小さい時分から右に矯正されているから今回問題ない。が、物を投げる、ペットボトルのキャップをあける、注射を打つなどの力仕事(?)は全部左手である。蹴るなどの利き足も左なので、間違いなく私の体は左優位にできている。ゆえに左といえども私にとってはとても大切な指だ。爪を切るときも利き腕がわかる。手の指はどちらも交互に切るからあまり問題ないが、足の爪は利き腕で切る傾向にある。また爪も厚いし力もいる。利き手の人差し指の怪我は足の爪を切るのに致命傷だ(おおげさか?)
 突き指程度は何度も経験し、靱帯を切ることも足ではやらかしたが、指の骨折は生まれて初めてだ。
 これは思ったよりこたえる。こうして、キーボードを打つのも、左示指はFRV、TGBあたりを叩きまくるので、うっかりいつもの調子で打ち込んでると、「痛!」となる。
 
 そこで、左人差し指の領域も中指がかわりに進出して打っている。ゆえに打ち間違いがめちゃくちゃ多く辟易したが(ようやく中指うちも慣れてきたのでこうして記しているのだが)、左中指が猛烈に活躍している。注射も左示指で持てないので親指と中指で注射器を把持して何とか打っている。中指様に足を向けて寝られない状況だ(?)。
 指の骨折の患者さんには「大人ですとねー、腫れますし、5〜6週間くらいかかりますよ。」と何気なく話していたのだが、いざ自分の事となると、そんなに長く不便なのか、もうちょっとなんとかならんの?と文句の一つも言いたくなる。「患者さん」とは英語でpatient(忍耐)とよく言ったものだ。
 そんなわけで乱筆乱文はお許しください。

 新型インフエンザが関東地方でも確認された。
 
 完全鎖国でもしない限り、空港での水際対策は必ずすり抜けられる、と皆わかっていたはずだが、それにもまして一人の高校生の新型ウイルス国内感染がわかってからの神戸・大阪の広がり方は爆発的とも言える。

 これは二つの可能性を示唆している。
 
 一つは感染力が従来型より強力かもしれない、ということである。
 
 ヒトは新型インフルエンザに対しては誰も抗体を持っていないので、一人感染したら、確かに次々に被害が広がるのは理屈ではわかる。人類最初の「パンデミック・インフル」であるスペイン風邪も現在の遺伝子研究でわかったことだが、増殖能力が従来型の数十倍だっただろう、と言われている。だから、今回のものがそのようなウイルスである可能性も十分考えられる。
 
 もう一つはすでに新型が国内にあった、という可能性である。
 メキシコで新型インフルが確認される前は当然検疫なんぞしていなかったわけだから、日・メキシコをGW前に行き来していたビジネスマンや観光客がすでに国内に持ち帰り、それが蔓延したかもしれない。
 事実、当院でもGW前もずっとぽつぽつA型インフルエンザは検出されていた。その中に新型が紛れ込んでなかったとは言い切れまい。

 幸いなことに、死者はいまのところだが、日本では一人も出ていない。どうやら、弱毒性らしいと専門家たちが言い始めたから、ほっと胸をなで下ろすといった感じか。
 
 あまり目立たないが、同じ弱毒の季節型のインフルエンザも日本では毎年数百人の方が命を落としている。これは劇症型やインフルエンザ脳症を起こした方のみのカウントで、インフルエンザをきっかけに他の肺炎を起こして結果、死亡したという場合は入らない。
 
 そこでインフルエンザに対しては「もしインフルエンザにかからなかったら死亡しなかっただろう」という死者数を加えた「超過死亡概念」という考え方をしている。
 すると、日本でもインフルエンザ関連死は毎年15,000人くらいになる。免疫力の弱い乳幼児やお年寄りが大多数だが、交通事故死の約3倍であるから馬鹿にできない。
 弱毒型の従来のタイプでもそれくらいと聞くと、新型はいったいどのくらいの死者が出るのか?と知りたいのは当然の気持ちであろう。

 これが実に難しい。
 
 ウイルスというやっかいなものは変異を繰り返す、ことが知られている。
 「変異」はウイルスが生き延びていく能力のうち最大最強のものだ。
 ウイルスの本体はRNAという(DNAを一本にほぐしたものに近い)核酸が本体でこれ自身では生きていけない。必ず生物の細胞の中にある核と呼ばれる遺伝子が格納されているところに進入し、そこで増殖する。
 その際、自分の複製を作りまくるのだが、これがインフルエンザを例にとると、ミスコピーだらけで一度の複製で数%はミスする。
 実はヒトのDNAでも細胞が分裂する際、同じようなコピーミスはざらで1万回に一回は変異することが知られている(それでもウイルスよりは格段に少ない)が、ヒトDNAの場合はミスしたところを瞬時に修復する酵素が存在し、修復できないほどのダメージのときはそのDNA全体を破棄することさえする。
 余談だがそれができなくなった細胞がガン細胞になる。
 
 RNAウイルスのインフルエンザはそのようなミスコピーを直す機能は全くない。ばんばん増えては粗悪品コピーの垂れ流しである。
 そうこうしているうち免疫細胞の攻撃を受けるが、ミスコピーで増殖能力を失ったものや、免疫攻撃をかわせないものは次々にやられていき、能力的に生き残る確率の高い変異を起こしたウイルスだけがまた増殖を繰り返す。薄利多売のようだ。
 そして、生き残りやすいウイルスだけどんどん増えていき、最初に進入したウイルスと似ても似つかぬものも生まれることだってざらである。
 この傾向の最も強いものがAIDSウイルスで、逆に変化をほとんど起こさないのが、はしかウイルス、ポリオウイルス、天然痘ウイルスである。
 次々に姿を変えていくウイルスはワクチンができないから未だにエイズワクチンは精製されない。逆にワクチンの効くものはきっちり予防接種を打てば押さえ込むことは可能だ。事実、天然痘はそうして撲滅に成功した。
 この時、ウイルスが増殖することで宿主(ヒト)の細胞・臓器を破壊することが強いものを強毒性と呼んでいるが、ウイルスの生き残り適正と関係なく、増殖を繰り返す段階で、いきなり獲得してしまう危険も高い。
 
 スペイン風邪は日本で3年間で2300万人感染し、約40万人ほど死亡させた。死者だけで言うと原爆級のパンデミックであった(世界では数千万人死亡)。
 国内では初年度は2000万人もの感染者が発生した。猛烈な感染力を呈し、死亡者は25万人だった。(死亡率1.3%)
 夏が来て一度はおさまったが、おそろしいことに次年度の流行期には240万人の感染者中、死亡者は12万人だった。(死亡率5%)
 一見、死者が減ったように見えるが、感染者の数から言ったら死者は一桁多いと言える。
 これはどうしたことだろう。
 前年度かかった人は抗体を獲得するのでかかりにくくなるから、年を経るごとに罹患者は減っていっている。しかし、死亡率で計算すると2年目のシーズンは3倍も強毒になって帰ってきたわけである。
 だから今回の新型もヒト感染を繰り返すとどう転ぶかわからない。幸い、スペイン風邪はその後、毒性があがることなく、その翌年(3年目)からは終息に向かったが、さらに強毒に変化しなくてよかったといえる。

 今回の新型インフルもいつどこで強毒性を獲得しないとも限らないから、弱毒だから大丈夫だなどと間違っても言いきれない。目を離さないで追跡することが大事である。
 
 それにしても、日本はつくづくパニックに弱い国民性だ。また、熱しやすく冷めやすいことも併せ持つ、と思う。
 ちゃかすようだが、関東地方に大地震がもう100年近く来ていないという事実の方が私には不気味である。
 これもいつかくるいつかくる、と言われながら、他地方の大地震の報道を聞くたびに震災グッズが飛ぶように売れる。インフルパニックも似たようなものではないか。

 国内感染の第一例が出た京阪神地方での報道で駅に向かう人たちほとんどすべての方がマスクをした映像が流れる。
 どれだけ汚染された大気の中にいるんだ?とマスクをするなどという風習のない国から見たらそう思うばかりのシーンだらけだ。それだけ日本人は清潔好きなんだよ、と反論が聞こえてくるようだが。
 気持ちはわかる。誰が感染しているかわからない以上、防御したいというその焦りと心配は。
 だが、マスクが売り切れということを聞き焦るあまり、買い求めるためにあちこちさまよう方がよっぽど危ない。

そもそも、マスクにウイルスの感染防御力を期待することは間違っている。というか、そんな能力はマスクにはほとんどない。だから、マスクをして安心などは全くできない、と言い切っていい。それはなぜか。
 
 マスクをつけていて息が苦しいですか?
 苦しくなければあなたは大気中の酸素を十分に換気しているのだ。
 インフルエンザウイルスは細かい水蒸気に乗って感染者の呼吸器から飛び出し、空中に漂っている。マスクの穴などはウイルス玉にとってはとてつもなく粗い。ざるで水をすくうようなものだ(それよりもっと漏れ漏れだろう)たとえば満員電車のような、もしもウイルスがいる密閉空間では宇宙服でも着ていない限りはどんなことをしても吸い込むことを防ぐことはできない。
 
 一方、感染者が咳やくしゃみをするとウイルスはしぶきに乗って2mくらい打ち出される。初速は台風より速いからまるでバズーカ砲並だ。この時、感染者がマスクをしていると飛沫する水滴はかなりトラップできる。少々漏れるが、むき出しよりはかなりその周りの空気のウイルス汚染を防ぐことができる。
 
 インフルエンザは潜伏期というやっかいな時間帯がある。本人は元気でぴんぴんしているが、咳でもしようものならウイルスをそこらにまき散らす大迷惑な存在である。
 だから不特定多数の人と対面する職業の方(窓口業務やレジ打ちの方など)がマスクをするのなら意味はある。いつどこでインフルエンザをうつされたかもわからないし、そして潜伏期中どれほどばらまくかわからない。故にマスクをする。誠に合理的である。
 
 病院や老人施設にお見舞いに行く際、マスクをさせられるのは見舞客を病気から守るためでなく、あなたが得体の知れない病気を持ってるかもしれないので、体の弱い病人やお年寄りを感染から守るためにあるのだ。
 あなたがいつどこでインフルエンザをうつされるかもしれない、そして今がその潜伏期かもしれない、だから人にうつしてはいけない、と思って人のことを慮る「利他的」にマスクをして歩いているのなら、それは正しい。
 「うつされたくない」と思っている利己的な考えなら、マスクなどする必要がない。
 
 しなくとも、人混みを避け、早寝早起きをし(免疫力を高める)しっかり朝食をとって時差出勤をし(満員電車を避ける)残業せず、飲みに行かず、まっすぐ家に帰る。
 マスクをしていたら、本体にさわらず(ウイルスがついているかもしれない)指で同時に耳当てをはずし捨て(間違ってももう一回使おうと思わないこと)、すぐに手洗いを念入りにする。ウイルスがのどの粘膜にとりついたら約20分で進入するので、うがいは人混みを通過してから20分以内なら効果は期待できる。これが正しい予防法である。
 
 日本にはありがたいことに梅雨という、湿度100%の日が続く気候がこれから必ずある。
 しとしと雨の中、もしウイルスが感染者からくしゃみで飛び出しても2mで落下し、乾かないので舞い上がることはない。こうなれば感染力はいちじるしく低下し、おそらく一度は梅雨明けまでの間沈静化するだろう。
 その後、が勝負である。真夏でも空気さえ乾燥していればインフルエンザは流行する。実際、去年一昨年、従来型のインフルエンザが真夏に沖縄で大流行した。
 ワクチンも今年は作られることはないだろう。人感染がまだ初期の段階の今から感染が蔓延する頃ウイルスの形がどう変化するか全く予想がつかない。仮に作っても空振りの可能性も高い。

 予防は人との間隔をとる。罹ったな、と思ったら絶対に無理をしないで休むことだ。あなたの無理が10人の人を巻き込むと仮定すれば、もし「無理をする人」があなたとあなたがうつした方の二人だけしかいなくても瞬く間に20人の感染者を生む。
 
 ついこの間ロンドンで大雪が降った際、なんの申し合わせもなく市民は一斉に仕事を休んだ。家族で雪合戦をしたりのんびりとくつろいだそうである。割り切り方がいさぎよい。
 「仕事になんか、ならんだろ」がその理由である。日本人なら何とかして会社にたどり着こうと努力する。
その勤勉さは誇ってよい、がパンデミックに対してはその美点があだになるのではないかと私は大変危惧している。
 
 骨折して指が痛いけど頑張っている、のもあまり誉められないが、こんなことでは休めない・・・あれ?
(お前がいう!)

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2009年10月25日日曜日「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 反意句を持つことわざは多いようだ。

 たとえば、「後は野となれ山となれ」に対しては正反対の「立つ鳥跡を濁さず」があり、「君子危うきに近寄らず」には「虎穴に入らずんば虎児を得ず」がある。
 なにかことを起こそうとしたとき「善は急げ」がいいのか「急がば回れ」なのか、同時に言われたら一体どうしたらいいのかわからない。
 まあ、人生いろいろだ。その都度の場面で解釈し都合よく使い分ければいいのだろう。ことわざなんぞで真剣に悩んでいては思考停止になってしまう。
 
 教訓句としてのことわざには真理を突いたものが多く、これらは処世訓と違って反意句はちょっと思いつかない。
 その中でも私としては好きなものが「過ぎたるは(なお)及ばざるがごとし」である。
 これについては自民党の佐藤孝行代議士が以前間違った解釈で発言し物議を醸したことがある。
 
 中曽根内閣で総務庁長官(当時)に就任する際、過去のロッキード事件の精算がすんでないのに閣僚とはいかがなものか、と記者が聞いたことに対して、佐藤議員がこの教訓句を持ち出し「過ぎたことに関してはもう言及しない」と解釈して、疑惑の釈明せずだんまりを決め込む時に使ったのだ。
 
 うわ、こりゃすごいわ、これを「過去のことは水に流せ」って解釈する政治家ってほんとモノ知らないんだ、と思ったが、その後、マスコミがこぞってその誤訳を突っ込んでいるうち、いつの間にか本題がうやむやになったのを見ると、「知っててわざと間違えたのか?」というしたたかな作戦があったのでは?と思ったりもした。
 が、あっさり10日ほどで大臣辞めたところを見ると、ぼけかましの策なんかではなく、本当に誤解釈だったようだ。
 この句の意味はは「度を越したことは足りないことと同じである」が正しい。やり過ぎはやらないことと同じ、むしろ弊害があるくらいに思え、ということだ。これとは少し趣が異なるが、いわでもがな、という「言い過ぎ」で失敗した例を思い出す。

 漢の劉邦が項羽を倒して天下統一し、漢の初代皇帝、高祖になった頃のことである。(B.C.200年頃)
 楚王・韓信が謀反の疑いがあるとのしらせを受け取った。
 
 韓信は劉邦軍の大将軍をずっとつとめ、項羽を倒すのに大功があり、中国統一後は楚王に任ぜられていた。
 「戦えば必ず勝つ」常勝将軍・韓信が反旗を翻した、となれば、成立したばかりの漢帝国は一気に崩壊する。(ちなみに韓信は「国士無双(国に二人といない(ならび無き)サムライ)」とよばれ、どういうわけか、麻雀のあがり役の内、最も有名な役満の語源である)
 皇帝になった劉邦は猜疑心が強くなっており、それまでは部下たちに物わかりのよい「人のいいオッサン」であったが、この時はすでにそうではなくなっていた。
 韓信の謀反は確たる証拠もなく、ほとんど濡れ衣であった。
 言いがかりをつけた劉邦もばつが悪かったのだろう、が、一度疑われたものは重用できない。しめしをつけるため、とそれより韓信の能力を恐れ、楚王から兵権を持たない淮陰侯(わいいんこう)に左遷した。会社で言うと専務取締役から役員でない部長待遇に降格である。
 
 その事件後、ある時、劉邦は群臣をならべ、酒の肴に将軍たちの品定めをしていた。
 戦争において、だれそれは数千の指揮官ぐらいの能しかない、あいつは数万の旅団長クラスの器量か、とかなんとか言いたい放題であった。
 末席にいた韓信にも声がかかった。劉邦は韓信にきいた。
 「ワシはどのくらいの指揮ができると思うか」
 「陛下はせいぜい10万といったところでしょう」韓信は即答した。
 中国の戦争は紀元前とはいえスケールが大きい。10万といえば師団長クラスで、もちろん100万単位を扱う大将軍にはなり得ない。いくさ下手の劉邦は痛いところを正直につかれ、カチンときたのか劉邦はすかさず言い返した。
 「それなら、そなたはどうなのだ」「私は多ければ多いほどよろしいです(多々益々弁ず)」
 
 劉邦はこれには苦り切った。確かに韓信の用兵の才能は群を抜いている。兵が多ければ多いほど、確かに韓信なら天才的采配をするだろう。
 共和制ローマを震撼させたカルタゴのハンニバル、騎兵を縦横無尽に率いたマケドニアのアレクサンダー大王にも比肩する名将である。
 
 余談だが韓信とハンニバルはほぼ同世代の将軍である。韓信が世を去った13年後ハンニバルも歴史の舞台から姿を消した。
 ハンニバルは現在スペインのイベリア半島からカルタゴの将としてアルプスを越えて、北イタリアになだれ込み、その時地中海の覇者であったローマを滅亡の淵まで追い込んだ。現在でもイタリアでは子供が悪いことをすると、「ハンニバルが連れてってしまうよ」と叱るそうだ。日本での私が子供の時は一般的な「怖いおじさんが連れて・・・」だったが(笑)
 
 活躍時は少々のずれがあり、遙か東方で韓信が「背水の陣」(この韓信のとった戦法がことわざの語源である)をしいて、敵の趙軍の大軍を撃破した頃、ローマの最大の敵ハンニバルはザマの戦いで好敵手スキピオ・アフリカヌスに敗れていた。しかし、その敗れる戦いまでは、ローマの重装歩兵軍団に向かうところ敵なしだったハンニバル、数万キロ離れていたが、韓信と、もし戦うことができたら・・・と想像することも歴史を楽しく学ぶ秘訣ではないだろうか?閑話休題

 劉邦は笑いながら言った。
「それなら、そのそなたが、なぜ謀反を疑われ、ワシの虜になったのだ?」
おそらく韓信も自分の才能をひけらかして言い過ぎた、と思ったのだろう。
「陛下は兵の指揮は苦手でしょうが、将軍を指揮することができます。(将に将たり)これが私が捕まった理由です。これは天が授けた能力であり、人の能力ではありません」と、究極のゴマすりに出た。これにたいしてどう劉邦が答えたか、劉邦がどう思ったかは史書にはない。
 
 だが、韓信の心底をこの直前の言葉でかいま見、疑念は去らなかっただろう。
 こいつ、こんなこと言っておる、もし兵を動かせる立場であったら、そこの玉座にすわっているのはオレだぞ、と首に短剣を突きつけられた気持ちになったに違いない。これだけのおべっかを言われた劉邦の心は晴れなかっただろう、と推察できる。

韓信はこの問答の後、程なく本当に謀反を企てたが、あっけなく露見し刑死した。
もし、本当に劉邦を「将に将たり」と思っていたら、謀反など考えるはずがない。「多々益々弁ず」、とうっかり言ってしまった韓信に人間味を少々感じるが、これこそは過ぎたるは及ばざるがごとしの変形例ではないだろうか?多ければ多いほどよい、わけがないと思うのは私が凡人だからだろうか?

 頑張りすぎない、のが信条の私としてはこれに優るものはない(笑)
 以前、「すべて薬は毒である、その量のみが薬たるゆえん」、と記したことがある。どんな薬も量を超してしまったら猛毒になる、薬が劇的に効果を発揮するのは過不足なく投与した場合のみだ。これなんかはこの句まんまの好例である。

 よく、診察時聞かれることに、「この健康食品は体にいいんでしょうか?」がある。健康食品業界を敵に回すつもりは毛頭ないが、こういう質問にはほとほと困ってしまう。
 まず、体にいい、という表現である。少なくともこういう食品に高いお金をかけて利用しようとする人々は何かしら体に不都合を感じていることが多い。たとえば、膝が痛い、動悸がする、疲れやすい、などなにか「どこか調子が悪い」状態で、さりとて薬を飲んだり、病院に行くというのがおっくうか、心理的抵抗がある方だ。たまたま、ワクチンを打つやら特定検診やら、ほかのことで受診した際、ついでにとばかり尋ねてくる。
 体にいい、と期待するのは、そういう体の不具合が治るのか?という問いなら、残念ながら効かないであろう。それで治るくらいなら、何もしなくても自然の治癒力で治るはずだ。
 
 もう一つの意味は「体に害はないのか?」という虫のいい問いである。このような食品やサプリを好む人はたいてい「薬は毒である」という一方の真実を過大に評価している方たちである。薬は飲みたくない、体に悪そうである。自然の力で、後はサプリで治したい。そういう心胆がある。
 
 残念ながら、いくら摂取しても体に害のないものなら、それには薬効を期待してはいけない。
 「すべての薬は毒であるから」がその答えである。ただの食物だってバランスを考えて食べなくてはならないのに、単一のものをずっと食べていれば健康を保てる、と簡単に信じてしまうのはどうしてだろう?私にはそこがわからない。
 
 だから、健康食品と銘打っているものに、体にいい、と言える物は私としてはなにもない。ほどほどに、適量を摂取している分には、よくも悪くもないだろう、だって「食品」なのでしょう?それに「健康」とつけるから話がややこしくなるのだ。
 過ぎたるは及ばざるがごとし、であるから、そればかり摂取するのはよろしくないと私は考える。
 すこぶる困ることに、何か病気を隠し持っている人がとる場合とそうでない場合はいちじるしくリスクが変わる。
 たとえばウコンやしじみは「肝臓によい」という伝承があり、実際積極的に摂取している方も見受けられる。ウコンに含まれる非ステロイド系ポリフェノールであるクルクミンの作用が肝臓保護効果、利胆作用を持つとされており、伝承を裏付けているが、実はそれと裏腹に薬剤性肝障害の発生頻度はこのウコンが最も多いのだ。民間伝承にはある程度当たっているものもそうでないものも玉石混淆である。

 ウコンを含む健康食品は数多く、その製法も一定でないし、また混合物も多いため、肝臓に対するアレルギー反応なども言われているがはっきりとした原因はわからない。ウコンはカレーの香辛料であるターメリックとして知られるが、そのくらいとしての摂取が望ましいのであろう。とても毎日摂取して健康を保とうとするシロモノではない。
 と言っている当の私もちょっとした会の前にはコンビニで「ウコンのチ○○」を買って、飲んだりしているのだ(笑)悪酔いや二日酔いしないようにと願ってだが、もちろん毎日は飲んではいないし、悪酔いは酒量がすべてだとちゃんと知っている。が、わかっちゃいるけどなんですよね(笑)
 しじみもミネラル、ビタミンB群、タウリン、メチオニンなど多く含み肝臓の働きを助けるのは間違いない。だが、その値はハマグリ、カキ、などと比較してもあまり差はなく、むしろ、可食部分が少なく、良質タンパク質として摂取できる量はたかがしれている。
 それよりも、もっと重大なことだが「慢性C型肝炎の際は、ウコンとしじみは避けるべきである」という事実だ。
 え?肝臓にいいのでは?という疑問がおありであろうが、ここに先に挙げたリスクの差が生じてくる。
 ウコンもしじみも適量ならまず健康食品である。だが、その適量でもある種の病気の方には体に毒となる、ことが問題なのだ。
 ウコンの根に多量に含まれ、そしてしじみにも牛レバーよりも含有量が多い鉄分がその正体である。鉄は貧血によいとされ、もちろん「鉄欠乏性貧血」の特効薬にもなりえる。しじみも貧血の女性にはよい食品であろう。しかし、慢性C型肝炎の方が鉄を過剰に摂取すると肝炎が悪化する。それはなぜかというと鉄はきわめて強い炎症物質で、肝臓に入り込むと活性酸素を鉄が発生させる。そのため肝炎がひどくなるのだ。慢性肝炎の最近始まった治療法に、瀉血療法(しゃけつ=血を抜いて捨てる)で体の鉄分を抜くことが有効だとわかり実施しているくらいだ。その理由で肝炎の悪化時に「食べない方がよい食品」にしじみは入っている。
 しじみは肝臓によい、と盲信していると、肝臓が悪いと聞くと、お節介にも慢性肝炎の方にしじみをすすめてしまうケースだってありえる。どんなにそれを食べて自分の調子がよくても、人は全く違うものなのだ、とよく考えていただきたい。友人に勧める、というのはご年配に多いがこれこそはありがた迷惑の典型である。
 
 ワカメ・コンブに白髪を防ぐ効果がある、と信じて、そればかり食べて甲状腺機能障害を起こして来院されたかたもいる。どういうわけか海藻類に白髪を防ぐという伝承は全国に見られるが、残念ながらそのような成分もなければ、信頼できる研究報告も全くない。
 おそらく、海の中でゆらゆら揺れている海藻のイメージがつややかな黒髪を連想させただけであろう。海草類にはヨード分が多量に含まれている。そればかりとると甲状腺障害を起こすのは自明である。これにおいてもやはり過ぎたるは及ばざるがごとし、としか言いようがない。

 ひと頃昼の健康番組で紹介された食品が次の日店頭からきれいに消え、次から次に紹介されてはなくなるという現象が起きていた。しかし、そんな都合のいいスーパーで手に入る食品に「健康増進効果」などあるわけがないのはちょっと考えればわかるはずだ。でなければ、どうして認可を受けている本物の健康食品があれだけ高いのか説明がつかない。
 エスカレートしたあげくデータ捏造疑惑で最近は沈静化しているようだが、これなんかは健康食品バブルがはじけたとしか私には思えない。どこかできっと業者が大もうけし、大笑いしていると思うと全く腹が立つ。

 「いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。」という意味の言葉を残したハンニバル。これは非常に含蓄のあることばで、常に前進、常に中庸を心がけるべきであろう。無理な戦いは避けつつも、戦うたびにローマを痛打した彼らしい。
 一方、韓信の墓碑銘となった「多々益々弁ず」、やはり何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、と考えるべきだ。
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2010年02月27日土曜日「ピロリ菌とヤドリギ」
 よくよく考えるとガン細胞というものは不思議な生き物である。
 
 無限に増殖する機能を持ち、免疫細胞の攻撃もかわし、バラバラにされても生き延びる。(人間の細胞は白血球らをのぞきバラバラにされると死滅する)
 これほど高度なメカを持っているのに、勝手に暴走したあげく、宿主を弱らせ、死に至らしめる。勝ち残ったガン細胞だって一蓮托生だ。自分も死滅する運命がわからないで、酒池肉林をしている暴君のようである。
 これほど生き延びることに関しては高機能であるのに、宿主を死に至らせる仕事しか成し遂げていないところが、あまりにももったいない。
 
 ウロボロスという伝説のドラゴンがいる。古代エジプト神話に登場する龍で自分の尾をくわえて、飲み込んでいる姿で書かれている。どんどん飲み込んで最後は自分の頭まで飲み込んだらどうなるか?
 そこからウロボロスは死と誕生を繰り返す「無限」の象徴になった。
 無限大の記号∞はこのウロボロスがとぐろを巻いて自分の尾をかじっている姿から生まれた。
 
 ガン細胞はまるでこのウロボロスをイメージしているように見える。自分自身まで、飲み込んだ後に(宿主を打ち倒した)自分も死にいたり、結局消滅するわけだから、何も残らない。そんなところが実によく合致するように思える(私だけ?)
 
 唐突なようだが、それにくらべるとコバンザメやヤドリギなどは相当賢い。コバンザメは周知のように、巨大魚に頭の小判に似た吸盤で吸い付き、大魚が食べこぼしたおこぼれのエサを食べることで生きていく。なんか情けないが・・・それでも自分で泳がないでいい魚類はなかなかお目にかかれない。
 ナマケモノというか、目くらましを持ってエサをとっているあんまし泳いでなさそうなチョウチンアンコウくらいしか思い浮かばない。でも彼らは何が楽しみで生きているのだろう(笑)
 
 ヤドリギは大樹の枝に寄生する。枯れ木を見上げて、一部団子のように絡まる生い茂ったところが見つかるとこのヤドリギである可能性が高い。
 ヤドリギは常緑樹だから自分で光合成も行うくせに、水分やミネラルは寄生先からちゃっかり頂戴する。枝にとりつくためには、自分だって根を張るのだから、横着しないで大地に根を生やせばいいのに、と思うのはやっぱり私だけか?
 植物界もいろいろあって、いそうろうのほうが居心地がよいのかもしれない。
 
 このコバンザメやヤドリギは滅多なことで宿主を滅ぼすことはしない。ヤドリギはたまに宿主枯れをおこさせるらしいが、宿主が葉を落とす冬期でも青々と茂り、自らの身を挺して、フクロウの巣に貸し出し(?)たり、そこに訪れる鳥類が宿主の繁殖を助ける働きもしたり、森の生態系に良いこともしているらしい。     
 ギョウ虫だの回虫だの寄生虫類も自分だけでは生きられないが、宿主を滅ぼすまで無茶はしない。何事も共生共存の世の中だ。
 
 ガン細胞も少し見習った方がよい。どうせ、殺そうとしても死なないほど強い(「ダイ・ハード」ですね)のだから、少しは宿主に手加減しようかな、くらいの優しさも持って欲しい。
 レイモンド・チャンドラー作「プレイバック」で世界一かっこいい私立探偵フィリップ・マーロウが
「強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない」
 と名台詞を吐いていたが、まさにガン細胞にそういってやりたい。
 
 さて、本題はというと実はこのコラムでも何度も登場しているヘリコバクター・ピロリ菌という胃にすむ寄生菌のことである。古くから胃は強酸を分泌するため、その中で細菌類は生存できないと考えられてきた。私たちも医学生時代は「胃内は無菌である」と習ってきた。
 しかし、20世紀の初頭には胃癌患者の切除標本かららせん型の菌がいることがすでに発見されていた。実はこれが後のピロリ菌発見の嚆矢となるのだが、証明されるまではそれから実に90年近く待たなくてはならなかった。
 
 1940年にはある研究者が多くの切除された胃を調べ約1/3にやはり同じような菌がいることを報告している。
 ところが、1950年代にエディ・パルマーという消化器病理学の大家が1000件以上の胃生検の標本を調べたところ菌は一つも見つからなかった、と発表したため、
「胃に菌が生息しているというのはガセか、標本を調べている最中、空気中の菌が付着したのだろう」
 と皆が信じてしまった。その後、胃に菌がいるという仮定を立てて調べる研究者はほとんどいなくなった。
 まるで水戸黄門の印籠である。これを出された瞬間、皆はへへーとひれ伏してしまった。こういう、長いものに巻かれ右へならえ状態は日本だけの風物かと思ったら、学界ではよくあることなのですね。
 いつの時代も、余計なことをする「大家」がいて(本人は大まじめで悪意は全くないとは思うが)、またそれが大家であればあるほど、学会やその権威に振り回される一般医(私もである)は常にミスリードされる。 
 結局、ヘリコバクター・ピロリが発見されるのは、印籠を振り回されてから、さらに30年ほど待たなくてはならなかった。
 1982年オーストラリアのウォーレンとマーシャルが初めてこの菌の分離培養に成功したのだ。2005年二人はこの功績でノーベル医学生理学賞受賞している。この菌の発見がどうしてノーベル賞に値するかというと、発見以後、胃癌の成り立ちに深く関わっているのではないかと証明されてきたからだ。

 ピロリ菌は不思議なことに動物の胃の中でしか増殖できない。その他の場所では球状に変形し、活動を停止する。この性質のため長らく研究者から見逃されてきた。そのわけは、菌がある病気の原因であること証明するにはコッホの法則を満たさなくてはならなかったからだ。
 コッホの法則とは
 1)ある病気には特定の菌が存在する(たとえば、赤痢にはある菌が見られる)
 2)その菌を分離培養できる(その菌を便から取り出して増やすことができる)
 3)その菌を使って病気を起こすことができる。(増やした菌を動物などに与えて赤痢を起こすことができる=ここまで証明してこの菌は「赤痢菌」と言える)
 の3条件である。
 
 ピロリ菌の場合、2)の条件を満たすことが長らくできなかったため、(胃から取り出すと増殖できなくなるため培養ができない)胃に住んで何か企んでいる菌だと言い切れなかったのだ。
 胃はもともと食物を粉砕消化しようとする場であるから、生物が生き抜くには考え得る最大の難所であろう。ピロリ菌とてタンパク質でできている生物なのにどうして溶かされないのか。
 それは、ピロリは自分の回りを強いアルカリ性であるアンモニアの壁を作って胃酸を中和させて自分を守っているからだ。強力な鎧を着ているため、ピロリ本体には胃酸の力が及ばない。
 ピロリ菌がそこでしか暮らせないことは実に奇妙だが、同時に強力な天敵が存在しないというパラドクスがこの計算を成り立たせているのかもしれない。実際、ほかの菌たちは条件のよいところに住みたがるが、菌同士共生する際、その勢力は一人勝ちにならないようにいろいろな菌が上手に住み分けている。

 このピロリ菌がどうやら胃癌を量産させてきた張本人であるということがいよいよ確からしくなってきた。  
 それまでは、やれ塩分の取りすぎがいけない、とか焦げたタンパク質がよくない、とかタバコのせいだとか、胃癌と嗜好品・食べ物いろいろ関連づけて発表されてきた。
 しかし、胃癌の切除された標本のほとんどからピロリ菌が生息しており、(90%以上)逆に内視鏡医がピロリ菌の陰性の方からは10年間追跡調査し胃癌の発生が全くなかったことを報告していることから、どうやらピロリ菌が胃癌を作っていることはほぼ明確になった。
 
 日本における胃癌の多発年齢層は60代である。日本人のピロリ菌の感染率は約40〜50%、そして高齢者ほどその率は上昇する。60代では70%以上の保菌率と言われているが、いくら何でも3人に2人も胃癌が発生していない。そこから考えると、ピロリ菌を持っていながら、胃癌を発症しない人の方が圧倒的に多いことになる。 
 計算ではピロリ菌保有者のわずか0.9%しか発症しないことがわかる。
 厚労省がこのデータを見て、除菌(ピロリ菌の退治)を渋るのは仕方がないかもしれない。もし、すべて保険でこの治療を施すとすると100人中たった一人発癌するかどうかの率だから99%は無駄な薬物投与になるわけだ。
 だから、現在ピロリ菌除菌は胃潰瘍・十二指腸潰瘍・胃リンパ腫のみ保険適応を絞られている。それは胃・十二指腸潰瘍は薬で治るものの、制酸剤を飲み終わるとすぐに再発するケースが多発していたからだ。
 ピロリ除菌後、それらの再発率が激減することがわかったので、長期的に考えると潰瘍薬や通院代を押さえることができる。患者も潰瘍の再発から解放されて万々歳ということになるのだ。おまけに胃癌になるリスクも減るとなると一石二鳥である。
 さて、なぜ、ピロリ菌が住んでいても平気の方もいれば、潰瘍ができたり発癌してしまったりする人もいるのだろう?ピロリを守っているアンモニアの生産が多いと胃粘膜を傷めるのではないかと考えられてきたが、それなら、すべてのピロリがその性質を持っていることから説明がつかない。
 
 その有力な解答の一つにピロリにも善玉と悪玉がいるのか?という推測が成り立つ。
 実際、タイ国ではピロリ菌感染者率は日本より高率だが、胃癌死亡率はきわめて低い。計算上、日本はタイの17倍(!)胃癌死亡率が高いのだ。タイと日本のピロリの悪性度が違うのなら、この数値は納得できるものになる。
 
 最近、そのピロリの悪性度を受け持っている可能性がある遺伝子が発見された。
 CagA遺伝子がそれである。このCagAは簡単に言うと、ハチのような「毒注射針」に似て、これを持つピロリは胃の粘膜細胞に針のような構造でCagA蛋白という「毒」を打ち込む。
 この毒を注入された胃細胞は分裂を停止し、結果、日焼けした肌が剥がれるようにぽろぽろと脱落してしまう。これがピロリによる慢性胃炎の成因とされている。ピロリ菌が長い年月をかけて大暴れしていくと、胃炎→慢性胃炎→胃癌となることが推測された。
 追加実験でこのCagA蛋白のみ取り出すことができ、それをマウスに投与したら胃癌、小腸癌、白血病、リンパ腫などを引き起こすことがわかり、これ自体強力な発癌物質であると考えられた。
 
 それなら、このCagA遺伝子を持つピロリだけ除菌すれば最小の努力で最大の効果を得られないか? 
 これはかなりのグッドアイデアであろう。ところが、そうこうしているうちに首をかしげるような発表も相次いだ。
 悪玉ピロリ菌は実は別の癌を抑制しているという研究だ。
 それが去年米国立癌研究所より発表された。
 
 CagA遺伝子を持つピロリ菌感染者は食道腺癌になる比率が非感染者の約半分である、というのがそれで、研究者によると食道腺癌は強い酸である胃液の逆流で起こることが知られている。
 ピロリ菌は胃酸を中和するので、食道への強い酸の逆流が減り、腺癌を発生させにくくしているのがその理由の一つである。
 もう一つは胃の粘膜からグレリンというホルモンが分泌されているが、CagA蛋白がこのグレリンの分泌を減らしてしまうという。
 グレリンは強力な食欲刺激ホルモンでこの分泌が減ると肥満になる率が激減する。なるほど胃を切除した人で肥満が少ないのは、グレリン分泌がないために食事量が減ったからと解釈するべきである。(ちなみにグレリンは1999年日本の国立循環器病センターで発見された。)
 食道腺癌の危険因子は「肥満」であるので(乳癌、肝臓癌、腎臓癌、大腸癌なども肥満が危険であることは有名)グレリンが減るとその発癌も減るのでは、と研究者は推測している。
 
 悪玉ピロリ菌は食道腺癌と肥満を減らしているのなら、乳癌や肝臓癌などなどの他の癌やメタボリック症候群も減らしている可能性は捨てきれない。メタボを減らせば脳卒中、心筋梗塞、糖尿病、高血圧も減らしているかもしれない。

 どうやら悪玉ピロリ菌は胃癌を作ってきてはいたが、もしかしたらヤドリギのようになにがしかの「良いこと」もしていたのだろうか?
 
 ピロリ菌は球状に冬眠した状態で幼少時からおそらく口に入って感染する。それがかつては井戸水だったか、まな板の上を駆け抜けたネズミの足についていた糞が乾いたものか、壁をはい回るゴキブリについていたのかわからないが、これからは衛生状態の改善でピロリ菌感染は衰亡の一途をたどるだろう。事実、日本でも各国でも若年層のピロリ感染率は激減している。
 胃癌発生もそれと同時に減りつつある。が、他の癌はほとんどと言っていいほど急増している。(子宮癌以外だが、この子宮癌もパピローマウイルス感染症から発生すると言われているから、これからはワクチンで激減するだろう)
 ピロリが何らかのよいことをしているのなら、彼らの勢力の衰えは胃癌の減少分と差し引き以上に他の癌を増やしている、としたら私たちが「よかれ」と思って治療している除菌は一体?
 とまでは考えすぎだろうか。
 だからといって目の前で発癌するのがわかっているという菌を見逃すのは私たちにはためらわれる。

 どんなに役に立っていなさそうな生物でも、生態系の中では秩序に乗っ取って生きている。寄生を身上としているなら、宿主を攪乱して弱らせてしまえば自分たちだって滅びに向かう。

 細菌が同じ営みで分裂していくことを私たちの都合で勝手に呼びかえている。役に立つ増殖を「発酵」。役に立たない増殖を「腐敗」といいかえているが、菌にとっては同じことをしているに過ぎない。
 
 果たしてピロリの増殖は私たちにとって「腐敗」なのか「発酵」なのか?
 このピロリ菌に対する除菌治療が世界のスタンダードになり、さらに数十年経ち、「さてどうなったか」と膨大な統計をとらないとその功罪はわからないかもしれない。
 
 体という小宇宙に共生している生物を一方的に排除してよいものかどうか、一人一人としてはよいのかもしれないが、人類全体の死亡率としては一体どうなることだろうか。
 21世紀に入って考えれば考えるほど袋小路にはまりこむことが多くなったような気がする。

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2010年08月15日日曜日「長寿の5項目」
 アイゼンハワー大統領(1890〜1969)は高コレステロール血症に終生たたられた。
 当時ゆえ、コレステロールを下げる効果的な薬はなく、ひたすら摂取しないように節制を強いられるほかすべはない。高脂肪食の多いアメリカでは和食ほど食事のバリエーションが少なく、さぞかし困ったことであろう。
 大統領の総コレステロール値は極値では600(!)を越えており、現在だったら、到底放置される成績ではなかった。結局、彼は心筋梗塞になり心臓手術を受ける羽目になった。全く教科書通りのコースである。
 
 主治医は当時高名な心臓医ホワイト博士であった。
 不整脈の病気、ウォルフ-パーキンソン-ホワイト症候群(といっても長すぎるので、一般には頭文字をとってWPW症候群と呼んでいる)にその名を残すホワイト博士はアイゼンハワーに「長生きの教え」を伝授した。
 
 それは、
 太りすぎるな、歩き続けよ、たばこは吸うな、引退はするな、先祖からの長生きの素質を信じよ、
 の5項目である。
 そして、手術直後、大統領に積極的にサイクリングを行うよう勧めた。当時、心臓術後などは負担をかけてはいけないという考えから、絶対安静が常識だったのだが、ホワイト博士の方法は皆の度肝を抜いた。
 「とんでもないことがおこっては・・・」と周囲の心配をよそに、驚異的な回復力を見せた元気なアイゼンハワーの姿の報道がきっかけとなり、健康法として全米にサイクリングブームが起こったという。
 
 ホワイト博士の長生き法は21世紀の今から見ても理にかなっている。
 
 太る、ことは短命に直結することは数多くの研究から裏付けがとれている。ただし、標準体重からやや太めの女性集団がもっとも長命と言われているので、「こぶとりじいさん」ならぬ、「小太りばあさん」が長生きといえそうではある。
 メタボ体型が病気の問屋のように有名になっているが、最近腹囲で計測する方法が「理論的でない」と反発をくらっており、「腹囲とメタボの相関はめちゃくちゃだ」という研究結果も多く出されてきている。
 なるほど、息を吸ったり吐いたりですぐ5cm以上誤差が出る検査法だから、ばらつきが出てもおかしくない。
 内臓脂肪を誰が見てもわかる検査法はCTで脂肪の層を映し出す方法だが、これは「お金がかかりすぎる」ことと「被爆が多い」ことで検診にはむかない。さてどうしたものか・・・
 アメリカでは最近メタボリック症候群そのものに対する疑義が生じ、メタボだからといって心臓病が激増するデータはないと次々に研究結果を出している。アメリカ糖尿病学会では「メタボは基準があまりにもあいまいで患者にメタボとレッテルを貼ってはいけない」と声明を出したくらいだ。
 基本検診をメタボ検診に切り替えたばかりの日本はおそらくこの声明に面食らっていることだろう。血液で客観的にメタボらしいと判断するためにはインスリン抵抗性の証明と高感度CRPという項目が脚光を浴びているのだが、それを説明するのは脱線しすぎるのでまたの機会に。心臓病に限らず高度肥満は短命であることは間違いのない事実で、それを「小太り」まで引き下げたことが問題だった。ホワイト博士の「太りすぎるな」が正解だったようである。
 
 歩くことは、これも現代研究で長生きが証明されている。生物の授業でおそらくミトコンドリアというものを習ったことだと思う。はて?ミトコンドリアって原生動物だったっけ?とうろ覚えの人もいるだろう。
 ミトコンドリアは動物の細胞のなかにあり我々の「エネルギー産生工場」である。ミトコンドリアの仕組みは大変興味深く深入りするときりがないので、ここでは「酸素を利用して莫大なエネルギーを生み出すところ」と理解して欲しい。

 運動すると細胞内のエネルギーが枯渇する。するとミトコンドリアはグルコース(糖分)を細胞外から流入させ、燃焼させる。それでも足りないと、酸素の吸入量を増やす。これが「息が上がる」という状態だ。  
 それでも足りない、といよいよ脂肪を燃焼させるようになる。
 実はこの脂肪の燃焼効率が最もよいのだ。少ない原料で多大なエネルギーを得ることができる。
 それじゃ、なぜそれから使わないかって?
 たとえは悪いが札入れと小銭入れがあったら、コンビニではどちらを取り出しますか?
 雑誌買うのに万札は出さないでしょう。おつりがふくれあがってどうしようもなくなる。だから小銭入れから出すだろう。
 ミトコンドリアも少しの運動なら老廃物の処理も少なく手軽に動かせる糖をエネルギー源にしたいのだ。だから、細胞内外でエネルギーが枯渇するほどの要求があれば初めて仕方なく万札(脂肪)を切り崩していく。
 それに脂肪には重大な他の役目がある。もしものためのエネルギー貯蔵庫なのだ。だから、預金を引き出すのはよっぽどの時だ。第一いつ飢餓状態になるかわからない。現代を除き人類はずっと飢えと闘ってきた。だから、ミトコンドリアはせっせと脂肪をため込むくせがついている。
 現代人は飢餓状態に陥ったことがないから預金がふくれあがって使い切れないほどの脂肪をため込んでいる。だから、よい意味での大判振る舞いの浪費が必要といえる。
 
 歩き続けると細胞周囲の糖が枯渇する。その時間はだいたい歩き始めて15分くらいとされる。そこから脂肪が燃焼し始めるのだ。
 歩き続ける習慣ができると細胞も「親方はどうも継続して筋肉を使うつもりだな」と理解してミトコンドリアの数を細胞内に増やし始める。するとエネルギー代謝がよくなりさらに効率がよくなる。脂肪燃焼にも拍車がかかるというわけだ。全く持って歩き続けることは健康によいことである。

 たばこ、は言うまでもない。肺ガンのみならず、呼吸器に関係なさそうなガンの発生すら増やす。ガンを免れても肺胞を破壊し、慢性閉塞性肺疾患を激増させる。個人だけなら自己責任で仕方ないが、排出煙や副流煙は他人を病気に巻き込む。迷惑きわまりない。それゆえ、至る所で分煙、禁煙がすすんだのは仕方ないだろう。ガラス張りの哀れな隔離スポットになったとしても、さらし者でも、人の排煙の中でも、それでも吸いたい、という欲求は喫煙者しかわからないだろう。あいにく私にはわからない。
 たばこが麻薬級の中毒を引き起こすというのはあながち嘘ではない。いい加減販売停止にすべきではないだろうか?と、喫煙者にとっては暴論を吐くものだが、吸わないものはそれほど煙草などどうでもいいと思っている。
 
 引退するな、というのはなかなか画期的な話である。大統領は任期を全うすれば引退するしかないのだが、(アメリカでは)生涯引退するな、というのは一般人に向けたものだろう。生き甲斐を持てという側面ともう一つは「適度なストレス下に身をおけ」という意味であろう。
 
 イワシの輸送で面白いことを聞いたことがある。
 イワシはさかなへんに弱とかくぐらい、弱い魚で、水揚げしてもいかにして生きたまま輸送するかが問題であった。
 なにしろ群れをなして泳ぎ、広い海なら問題ないが、狭い水槽ではイワシ同士ぶつかり、それでウロコが剥がれるとほとんどすぐに死んでしまうほどのひ弱さ。イワシ一尾の単価も安い上、大きな水槽で少ししか運べないとしたら全く割に合わない。さてどうしたものかというと、イワシの天敵であるハマチを同じ水槽に入れ輸送するという。
 
 イワシはハマチから逃げようとして緊張して泳ぐ。すると、ぶつからず逃げ回れるようなのだ。少々ハマチに食べられてしまうが、その損失はハマチを入れない時と比べて微々たるものだという。生きていく上で適度なストレスが必要である、ということを説明する時によく引かれるたとえ話である。
 
 個人的には、引退すれば好きなことを悠々自適にやっていれば体にはいいのかな、と思えるし、リタイアしてさらに溌剌としているご老人も多いと思うのだが、集団で統計的に処理すると大きな違いが出てくるのかもしれない。
 
 寿命に関して興味深いリサーチがあるのだが、保険会社が調べているので間違いはずだ。なにしろ「保険金支払い」しなくてはらないので、保険者の寿命は会社の死活問題だから、本気であろう。
 
 その調査とは、リタイア直前の役職で加入者をわけ、その後の寿命を調べてみると、最も短命の最終肩書きは課長でも社長でもなく「部長」だったそうである。
 
 なるほど上からも文句を言われ、責任を押しつけられ、下からも突き上げられ、なおかつ嫌われる。ストレス満載の階級といってもいい。いざリタイアしたらその後、全くストレスのない状況におかれると、緊張の糸が切れ、ハマチのいないイワシよろしく、みるみる弱って死んでしまうのだろうか?
 
 部長で定年を迎えそうなら、その後、嘱託でもいいから、ストレスレスな(ややヒマで部下や上司のいない)職場に残り、適度な緊張に身をさらしつつ生きていく、というのがよいのかもしれない。ここでもDrホワイトの「引退するな」という教えは正鵠を射ているようだ。
 
 先月(2010年7月)号の総合科学誌「Science(サイエンス)」に載った研究の中で、「長寿遺伝子」の話があった。これは70種類の遺伝子を調べ、それが働いているかどうか(これを発現という)の組み合わせで100歳まで生きられるかどうかを予測できるという。
 
 老齢になると発現するいやな遺伝子もヒトは生まれながらにして持っていることがある。アルツハイマー病の遺伝子などもそのうちの一つだ。長寿者はそういう遺伝子の発現を押さえ込む遺伝子を持っているようで、確かに100まで生きるといわれても、認知症や寝たきりというのはいただけないしあまり長生きの意味もない。
 もちろんそれがすべてではなく、今回示された長寿遺伝子の組み合わせを持たない100超の人々も23%いたというので、自前の努力で生き抜いていける(?)ことも証明されたようだ。
 
 遺伝子、というものは当然親からのコピーである。突然変異というパターンもあるがおおむね両親のDNAを混ぜくったものになるから、大半の素質は受け継ぐことになる。
 長寿遺伝子は70種類というから、すべてを受け継ぐのはむずかしいが、偶然35種類ずつ、重複なく受け継げば、短命の両親からいきなり長寿キップということだって理論上可能だ。まあ、そんなにうまくいくものかどうかはわからないが、少なくとも70種類ずつそろえた両親からは漏れなくもらえそうだから100歳超同士の子供はやはり長生きできるだろうという予測はつく。
 長寿双子で有名だった「きんさんぎんさん」ももしかしたらこの遺伝子は持っていたのかもしれない。
 ここでも、ホワイト博士の「先祖からの長生きの素質を信じよ」はあたっている。

 心臓病の研究に生涯を捧げたホワイト博士自身も87歳まで生きられ比較的長命といってよかろう。
 彼は自叙伝で「私たちは心臓病にかかった中年および老年期の人たちを回復させるために最善の努力をする一方、この病気のために子供の時からその作業をはじめなければならない」と言い残している。 
 つまり、素質はある程度認めながらも、健康維持、心臓病予防にはひたすら努力努力、と言っているのだ。これは後輩の我々にとっても実に耳の痛い話である。
 
 1970年に日本で心臓財団が発足したさいホワイト博士の記念講演でもそのキモは
 「太りすぎるな、煙草を吸うな、歩け、歩けそしてひたすら歩け」
 であったそうだ。彼は自分でも実践していたようで、冒頭に出てきたアイゼンハワー大統領を往診する際、ワシントン空港からホワイトハウスまで1時間以上歩いて行ったそうだ。
 
 いろいろな長寿法がここ数十年出ては消え、どうやら、このホワイト博士の5項目は生き残りそうである。いつの時代でも何十年後さきを読み通す慧眼の士が現れる。医学でも、科学でも、政治の分野でもである。しかし、証明されていないことを力説することは医学界では「異端視」される。
 
 おそらくホワイト博士は「御大、また言ってるぜ。御大の説は長寿の証明されていないのにな」と当時他の研究者に陰口をたたかれていただろう。他の世界でもきっとそのようなことはあるだろう。
 ただそういう異端者が停滞した学問のブレイクスルーのきっかけになることは今までもいくらでもあったことなのだ。
 
 いつも思うことであるが、現代のこの停滞にあえぐ日本の数十年先を見通し、100年の計を打ち出すことのできる政治家が現れないものかと。
 全閣僚の靖国参拝のない65年目の終戦記念日を迎えて思う。

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2011年06月24日金曜日「神の火(上)」
 ギリシア神話にティターン族の神、プロメテウスが登場する話がある。
 
 天界にしか存在しなかった火をプロメテウスが地上に持ち出して人に与えたため、人類は大きな利益を得た。万物の霊長として文明を築く道ができたのだ。
 しかし、プロメテウスのその行動にオリンポスの主神ゼウスはなぜか激怒した。プロメテウスをとらえ、ギリシアからはるか東の果てコーカサス山頂の岩肌にくくりつけ、磔(はりつけ)の罰を与えた。ゼウスはそれに飽きたらず、ハゲタカを遣わした。ハゲタカに3万年もの間肝臓を食い破らせる責め苦である。
 
 ゼウスはどうも怒りっぽくて、キレるととてつもなく残酷なことをする。カミさん(女神ヘラ)に頭が上がらないくせにきれいな女性にはすぐ浮気する(笑)
 
 いつの世でもこういう上司は持ちたくないものである。

 さて、プロメテウスは神族なので不死である。ハゲタカにつつかれた肝臓は一日で再生してしまう。
 プロメテウスは来る日も来る日もハゲタカに体をむしり取られ激痛に悩まされた。人間の単位だと気の遠くなるほどの月日がたった数千年後、英雄ヘラクレスが通りかかり、プロメテウスを解放した。それまで、知らんぷりしてプロメテウスをはり付けておいたのだからゼウスはかなり意地悪であろう。
 
 もっともヘラクレスが助けに来るだろうということはゼウスは全能神であるから、とうに知っていたのかもしれない。なにしろ天を統べる神である。
 それなら最初3万年の罰とふっかけておいて、プロメテウスを放置し、結局は数千年の罪に情状酌量したのかもしれない。
 
 この天からプロメテウスが盗んだ火、それこそが原子力なのではないだろうか?
 
 ゼウスが激怒したのもこれでわかる。なんとなれば、原子力の燃料がウラニウムである。これはウラノスの火=天空の火と言う意味から名付けられたのだ。
 人類が「天の火」を制御できると慢心したからだろう。このたび、神の怒りが津波となって「天の火」を解放した。  

 人類はこの天の火を神の国に返すべきではないか、と私は思う。
 
 この間、福島第一原発は炉心棒が溶けてメルトダウンした、と割と涼しい顔で東電社員が会見していたが、私はこの映像を見て、背筋が寒くなった。
 
 このように軽い面持ちで果たしてよいものだろうか?
 泣き出せとか沈痛にしていろとは言わないが、深刻さが伝わってないと思うのは私だけだろうか?
 チェルノブイリであれだけ恐れられていた「メルトダウン」である。原子炉格納容器に穴があいた・・・と聞いたら素人が考えても
 「いったいこれはどうするつもりだろう?第一これでは炉心に近づけないし、たとえ近づけたとしても穴は何をもって塞ぐのだ?」と思う。
 このような疑問はぜひ池上彰氏に易しく説明してもらいたいものだ。

 それに、作業など一つもしていない東京にある大本営でいつもワークマンスタイルで登場する幹部はどういうつもりなのだろうか?
 いい加減いつもの勤務スタイルの格好に戻ったらどうか。どこの国だって直接作業していない責任者はスーツで会見するような気がするが・・・節電中だから、まあクールビズでもいいが・・・
 アメリカ大統領が作業着や軍服を着て災害や軍事報告しているのを私はみたことがない。
 これでは当事者のくせに人ごとのようにしか見えないのだ。
 「俺たちのせいじゃないよ、天災だよ、天災」と思っていることをはっきり言ってくれた方がよっぽどすっきりする。だが、本当に人知の及ばないところでこの事故は起きたのだろうか?
 
 東北では平安期に貞観地震という今回とほぼ同等の地震津波が起きている。東北電力管轄下の宮城にある女川原発はその被害を想定して防御システムを作り、今回の地震でも安全に運転停止した。なんの問題も発生しなかったばかりか、あまりにも安全で被災民の避難所に開放していたという。福島原発と比べ皮肉すぎる対比ではないか。
 
 想定外の津波で電源を喪失した・・・というが、電源が落ちたら、冷却できないことはシロウトだってわかる。電源だけは何重もセーブすべきだった、というかその指摘は何度も受けていたというから驚きである。
 今回の原発を医療事故に例えてみよう。
  
 もし、私が手術着の格好で、
 「えー、再三、皆様から手術をすれば、取り返しのつかない合併症が起こると指摘されていましたが、忠告を聞き流し、手術を施行しました。結果、手術は大失敗いたしました。しかし、直ちに死亡する恐れはありませんし、ICUで懸命に治療を続けています。」と会見したとしよう。

 「それは医療ミスと言ってもよろしいか」と記者が聞くはずだ。

 「あー、想定外の事象により、うー、手術続行の不可の事態に陥り、えー、患者の生命に危険を及ぼしたという意味なら、『医療ミス』です」
 と、しらっと言おうものなら、直ちにヤフコメあたりで「こいつから医師免許取り上げろ」と大炎上するだろう。
 さらに、海水冷却を中断しただの、そんなことは聞いていないだの、官邸と東電があとでやかましく責任のなすりつけあいをみるに至ってあきれはてて、
 「もう、どっちでもいいから、はやく原発をなんとかしてくれ」が国民の願いだと思うがどうだろう。
 
 穴があいた格納容器を冷やし続けなければ、高熱を発し続けさらに圧力制御装置まで溶かし始めるだろう。だから、ひたすら流しそうめんのように水を注入しなくてはならない。溶けた炉心棒が冷やしきるまで、そして放射能を制御できるまで何ヶ月どころではなく何年も必要かもしれない。
 またまた素人の疑問だが、その間垂れ流される放射性物質で汚染されまくった水はいったいどこへ行くのだ?
 地下水脈にでも入って、どこか遠い所へ流れ出すのではないか?温泉も大丈夫なのか?またあふれ出たら当然海に捨てるしかないだろう。海ははかりしれないほど広いから、大丈夫とでもいうのだろうか。    
 
 人類共通の資源である海を汚染しまくるその暴挙は国際的に許されるはずがない。明治維新後、または第二次大戦後、日本を懸命に一流国まで築き上げてきた先人たちの努力を無にして、各国からデスペラード(無法者)とレッテルを貼られ、その信義とブランドを地にたたきつけるようなものだ。

 JCO東海村臨界事故のドキュメントである「朽ちていった命」を読むと、いかに放射線が恐ろしいものかがわかる。
 
 核燃料の加工作業中、大量の放射線に被爆した作業員は当日入院したが、当初は冗談も言えるほど元気であった。臨界事故と聞いて、病院スタッフも原爆被爆者のような大やけどなども想像していたが、外見は特になにも異常はなかった。ただ、右手が日焼けしたように少し赤かっただけという。この右手が臨界を起こした放射性物質にもっとも近かったことが後でわかる。
 
 この後の作業員の治療経過がまさに「朽ちていく」という形容がぴったりだった。
 
 まず被爆後からすぐにリンパ球が消失した。白血球もみるみる減少し、5日目にはほぼゼロになった。
 しかし、抗ガン治療における放射線や抗ガン剤での副作用とある意味同じで治療スタッフはこのことは想定内であった。
 もともとこれらの血球は寿命が短く、次々に作られないと数日で枯渇してしまう。これら血球を作るのは骨髄であるから、骨髄機能は全停止したことになる。もっともこのことはスタッフにとってあらかじめ織り込み済みだった。

 入院時より、無菌室に入室し、厳重な感染管理下におかれていた。実妹から早期に骨髄移植を受け、成功すれば免疫細胞は復活する。
 白血病における治療で、白血病細胞を抗ガン剤で死滅させた後、家族やHLAタイプの一致したドナーから骨髄移植を受け、すべてをリセットする。それが、うまくいき定着すれば、移植細胞が元になって正常な白血球を作り出すだろう。それと同じやり方だ。
 体に侵入する細菌、ウイルス、カビ類などもすべて厳重な監視下におかれた。この頃までは治療を受けていた本人も大げさだと感じていたことだろう。

 骨髄移植を試みて、これはひとまず成功をおさめリンパ球や白血球数は回復をみた。
 しかしそれからの治療が困難を極めた・・・
 
 体に受けた放射線障害のために、治療をしてもしても次々に跳ね返される。
 先手先手で起こりうる障害を考え最善手を打っていったはずだった。それでも、刻一刻、命が削られていく。医療とは放射線の前ではこれほど無力なのかと思い知らされた。
 
 本には数枚の写真が挿入されているが、そのうちの一枚の写真に私は愕然とした。背筋が寒くなったといっていい。その写真とは被爆者の染色体の顕微鏡像であった。医学・生物学の教育をうけたものなら、その意味することは瞬時に理解できるだろう。
 
 人間の染色体は23対あるが、その被爆者の染色体は「こなごな」にされていたのだ。
 染色体は23対の足の長いX型をしている、そのイメージを覚えているものからみると、あり得ない染色体だった。粉々に粉砕され、あるもの同士はくっつきあい、一本の足になっているものもあった。もとの形や何がどうなっていたのか痕跡すらとどめぬくらい破壊されていた。
 染色体とはすなわち生命の設計図である。それがシュレッダーにかけられたのも同然だった。

 染色体は細胞の中央(皮肉なことに「核」という名がつけられているが)の中にあり核膜というシェルターによって守られている。その周りには様々な外敵侵入防止機能が施されている。ウイルスによって書き換えられたり破壊されては困るからだ、さらに細胞膜という防御膜があるので、何重にも守られている。滅多なことでは損傷しない。
 しかし放射線はそのバリアを簡単に突破し、染色体やDNAの一部を断ち切る。切られっぱなしではDNAは死んでしまうので、それを自動修復する機能も用意されている。もし、それすら修復が不可能な重大なダメージを受けたとしたら、その細胞は自殺する機能が発動する。これをアポトーシスと呼んでいる。これは癌化して隣の細胞に迷惑をかけないよう、たとえは悪いが「くさったリンゴを放逐」する手段だが、放射線はそれすら不能になるくらいすべてを破壊しつくす。

 この写真を見た瞬間、医療チームは敗北を悟った事だろう。体のすべての細胞の染色体がバラバラにされている。もはやこの人の体の細胞は一つとして修復しないことが明らかになったからだ。放射線の恐ろしさはまさにここにある。

 わずか、コンマ何秒も満たない時間の放射能(中性子線)で細胞の中枢のみをミンチにしてしまう。体はどこも破壊されていないのに・・・ 
 それでも医療チームはあきらめることなく治療を続けていく・・・しかし、結果は初めからわかっていたことだが、あまりにも悲惨な結末だった。

 人間の体は生きている限り細胞レベルで再生と死を繰り返している。目に見える再生は髪の毛や爪であり、ほっとけばどんどん伸びていく。一方粘膜や皮膚は毎日はがれ落ちて、最下層から再生を繰り返している。ふけやアカがそれである。
 
 この被爆者は次第に皮膚がむけ、胃や腸の粘膜は脱落し、出血を繰り返すようになる。こうなると、もう手の施しようがない、と同時に被爆した瞬間それが運命づけられたのだ。
 しかも、これは後に死後の解剖でわかったことだが、体がすべて再生しなくなったにもかかわらず、脳細胞と心臓の細胞は無傷であった。これを意味することとは、体の他の部分が崩れ落ちていくまではっきりと意識が残り、最後まで心臓は鼓動を打ち続ける。これは生き地獄とも拷問ともいえるものではないか。放射線障害はなんと残酷なことだろう。
 
 一瞬でDNAを破壊し尽くす中性子線の大量外部被爆はこのすさまじさを発揮するが、今回の原発事故でおそれられる放射線障害は内部被爆なのでちょっと異なる。
 
 内部被爆とは直接被爆する(JCO事故のような)ものと違い呼吸や飲料・食用などで体内に取り込んでしまう放射能のことである。
 炉心から水素爆発で吹き上げられた放射性物質は空気中を浮遊し、多くは地上に降り注ぐ。雨が降れば土ほこりと混じり、乾いて風が吹けば舞い上がって、呼吸するたびに体内に入り込む。すると体にある放射能を持たないヨード、カリウムなどと入れ替わってそこで放射能をまき散らす。これが内部被爆だ。
  
 取り込んでしまった放射性物質はある一定の期間で失活するか体外へ出ていく。また放射能がその半分になるまでの期間を半減期と呼んでいる。
 原発で放射性物質がまき散らされて、風に乗りかなり北西の方向へ飛ばされていたことがSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の公表でわかった。
 ネットで簡単に見ることができるが、驚いたことに原発周囲1km周辺の積算内部被爆量は10000mSvくらいのエリアがある。
 1歳児が24時間外にいたと仮定しての計算量だが、とてつもない値だということがわかる。この辺の土壌は恐ろしいほど濃厚な汚染をされたことに相違ない。

 原発の核燃料が溶融したときに大量に放出される物質がヨードとセシウム、そして自動的にウランが中性子を取り込んでできてしまうプルトニウムが代表的なものである。
 
 問題の放射性ヨードは呼吸や飲食物で取り込まれると、甲状腺にたどり着く。
 そこでβ線という放射線を出し続ける。β線は透過度(突き抜ける力)があまり強くない。だから、その人に近づいてもなんら問題はない。しかし、DNAを切断する力は等しく持っているため、すぐそばにある甲状腺細胞の染色体を長期にわたってぶつ切りにする。
 DNAを少しずつでも傷つけ続けると一部の細胞は死滅し、一部は癌化する。それが5〜20年後にわたって、甲状腺癌に成長することになる。実際同じ様な事故を起こしたチェルノブイリでは幼児〜思春期の甲状腺癌が多発した。実はこれが「直ちに健康被害がでるわけではない」の本当の意味だ。すなわち「すぐに死ぬことはないが後々発癌する可能性は跳ね上がる」ことと同義なのだ。
 
 ・・・神の火(下)に続く
2011年06月27日金曜日「神の火(下)」
・・・「神の火(上)」より続く

 政府は市民の被爆は年間20mSvまでを許容した。平時の20倍なのだ。
 本当に大丈夫かどうか疑心暗鬼のまま決定を下したに違いない。「直ちに悪影響が出ない」ものはわかっているのだから、いわば賭けの要素も含まれている。
 様々な思惑もあろう。政治・経済的に勘案した結果もあろう。都市機能を止めてまで市民を避難させるということはあらゆる所から突き上げをくらうことを恐れたのでもあろう。
 私は政治家でないので、それはわからないが、しかし、個人としては到底飲み下せる放射線量ではない。
 
 放射能を浴びるということは癌や遺伝障害を引き起こす確率を直線的に上昇させてしまう。
 しかも、放射能はヨードだけではない。ヨードなら半減期は8日だから、十分な代替ヨード剤を投与しておけば、飽和状態になるため、ある程度甲状腺に蓄積する分が減る。しかし、セシウムやプルトニウムの半減期はうんざりするほど長いし、その解毒する薬はない。
 
 幼児は細胞の分裂能が高く、成長しきった成人とはそもそも放射能感受性がまるで違う。少し考えただけでも、妊婦や小児に放射能が体によいわけがないと常識でわかる。
 水素爆発以来数ヶ月経過したが、北西部の地域の放射能はほとんど減っていない。ということは、半減期の長い放射物質がすでに土壌や家屋を汚染していることと等しい。1年や2年では放射能は減らないと考えていい。それならば1年20mSvの被爆は5年で100mSv浴びてしまうことだ。これで子供たちが後々発癌しないというのか?そう言い切るなら、証拠を出せといいたい。
 
 チェルノブイリでは年間5mSv被爆の地域を廃墟にし、人の立ち入りを禁止した。この基準を今回に当てはめると福島原発30km以内のホットスポットは同じように廃墟にしなくてはならない。50km圏内も危ないところがあちこちにある。
 災害時、救援に来た米軍艦隊や陸上軍も原発から80km以内の侵入を禁じた。
 政府から「問題ない、大丈夫だと」繰り返し報道され、事情を知らされていなかった我々はずいぶん米軍は及び腰だな、と思っていたが、実は彼らが正しかったことになる。
 
  あの美しい奥州の国土が人の踏み込めない土地になってしまった。原発の電気を享受し、その存在を認め、「電気も必要だし、CO2削減に原発は絶対欠かせないよな」と思っていた我々も同罪である。
 その土地を愛し続けてきた先人たち、今も福島県に住んでいる人々に申し訳ないと思わなくてはならない。
 
 原発は開発や運転にはコストが少ないと推進者はずっと説明してきた。CO2も発生しないクリーンなエネルギーとも宣伝していた。しかし、ひとたびクライシスを迎えるとそれを制御するためにどれほどのコストと時間がかかるか計り知れない。そして、被害は数十年にもわたって及ぶというのなら、その効率だけをとってもマイナスではないか。
 今すぐ原発をすべて停める、ということは常識で考えても不可能だ。だが、我々は早急に原子力依存から離脱する必要があるのではないか?
 どれほど防災を施しても、どれほどチェックしても、扱うのが人間である限り、ミスは出るし、今回のように人智を越えた災害は降りかかる。活断層上にある浜岡だけ停めれば安心と言うことはない。
 医療もどんなに気をつけてもミスが出ることを知っているだけに今回の事件は私も相当ダメージを受けた。

 もともと原発とは永遠に犠牲を強いるシステムなのだ。
 
 定時も文字通り水も漏らさぬ監視が必要であり、オーバーホールには放射性物質である使用済み燃料をを移動させたり、保管したり、は人がやるわけだからその際ミスもあれば被爆もある。
 そもそも、その使用済みになった廃棄燃料でも永久処理所の問題は全然解決していない。廃棄物とはいえ、数万年も放射能を出し続ける危険きわまりないものだから。
 この「神の残り火」を永久に沈黙させる耐久物など人類は持ち合わせていない。こんなものをタイムカプセルつきで未来の人々にプレゼントしていいものだろうか。

 それでも原発は必要なのか?
 そういう方は今まで私の言った原子力の欠点を納得のいく反論ですべて否定して欲しい。
 じゃあ、代替エネルギーはどうするって?
 それが原子力推進論者の強力な地盤でありよりどころだ。
 それに対しては一つの可能性がある。

 2010年12月、というと去年末だ。日本発のことだが驚きの発表があった。筑波大学の渡辺教授グループが発見した「石油を作る藻」である。オーランチオキトリウムという藻だが沖縄のマングローブ林から見つかった。今までも、重油と同じ成分を作る藻も発見されていたが、それよりもはるかに効率よく燃料になるそうだ。
 
 それがどれだけの実力かというと正直私も驚いた。
 深さ1mの水槽で培養したとすると面積1ヘクタールあたり年間1万トンの燃料(炭化水素)を作ることができるという。これは2万ヘクタールの培養面積で日本すべての年間石油消費量をまかなうことができるポテンシャルを持つ。
 2万ヘクタールとはほぼさいたま市と同じ面積だ。日本に各地にちらばる減反された耕作放棄地はその20倍にもおよぶ(約40万ヘクタール)その一部を使うだけで電力は原子力などに頼らずとも、藻の作るだけの重油による火力発電一本で足りるではないか。
  
 この藻は残念ながら光合成を行うわけでなく、有機物をエサにしているため、これだけの燃料を作るためには大量の食べ物が必要になる。
 そこで、研究グループは生活排水中の有機物を使う方法や空気中の二酸化炭素を吸収し光合成を行う緑藻類が作る有機物をエサにしようと努力を重ねている。
 
 この場合、火力にしたらCO2が出まくるだろう、の反論は成立しない。
 光合成をする植物はCO2を取り込んで炭水化物と酸素を作り出す。その炭水化物が植物の体に貯蔵される、それをエサにするこの藻は取り込んだ炭素をさらに重油に変換するだけだ。
 だから、大気中にあるCO2を循環させているだけでエネルギーになる。
 
 CO2+太陽エネルギー→藻のエサ→藻が作る重油→火力発電→CO2+電気。この等式は課程を省略すると太陽エネルギー→電力。どうです、エコでクリーンでしょう。パネルなんかいらないじゃないか。(あってもいいけど)
 今問題になっている火力発電は地中に眠っている炭素を燃やす化石燃料だから、大気中のCO2を増やし続けるのだ。

 うまくいけば日本が産油国になるのも夢ではない。物づくりに定評がある日本がそこまでする必要はないが、エネルギーをある程度自給できればその恩恵は計り知れない。なにしろ、今のままならほぼ100%石油は輸入しているのだから。
 この研究に日本政府はなぜか冷淡で、教授には世界各国から強烈にオファーが来ているという。それは当然だろう、もしこの技術を手に入れ、藻のエサ問題が解決したら、化石燃料が枯渇し原子力に頼るというエネルギー問題はなくなる。この藻に1000〜2000億ほどの開発費用があれば実用化は可能ともいわれるが、庶民から見たらとてつもない金額だ。
 
 しかし、2兆4000億も経費がかかっても、トラブルが続き、ただの1Wの電力も作り出していない高速増殖炉「もんじゅ」に比べればちゃちい金額ではないか。
 さらに、もんじゅと大きな違いは、オーランチオキトリウムはたとえ開発に失敗しても放射能はださない。(あまり報道されていないが「もんじゅ」は今重大なトラブルに陥っている*。これはかなり危ない。フランスやドイツが開発を断念し撤退した危険きわまりない高速増殖炉にどうしてこれだけ入れあげるのか、私にはどうしてもわからない。世界で唯一の被爆国なのに日本のエネルギー対策を担っている経産省の頭の中はどうなっているのか。
 →6/24「もんじゅ」に落下した装置を無事引き上げ成功したと報道された。一安心であるが、経産省は「もんじゅ」運転まだやる気満々である・・・勝てない作戦を立てては玉砕する度し難い旧帝国陸軍ぶりの首脳だ。)

 とても恥ずかしいことだが、日本ではどの業界も政界・官界ともに、相互の利権で身動きがとれないのだろう。だから、原発にしがみつくのだ。政治家だって、頂点に上り詰めるまではいろいろな業界の助けが必要だろう。それが「族議員」だ。エネルギー族議員は国民より、将来の国土よりなによりも、原発ムラを大事にする。その結果がこれだ。
 原発推進者は必ず言うだろう。
 「以前からの原発反対者と違って、いきなり反対し始めたあなたたちだって原子力発電の恩恵を享受し、安価な電気代で文明的な生活をしてきたはずだ。それをたった一度事故を起こしたからって、ヒステリックに反対!反対!の大合唱。虫がよすぎないか?」
 
 そうですね。無節制に電気に頼ったという罪は同罪だと私も思う。これからは貴重な電気であるということを肝に銘じよう。だが、今までは原発は危ないと誰が言おうとせせら笑って
 「日本は唯一の被爆国。ゆえに核の扱いは他国と違う。その技術力は超一流でどんな災害が原発を襲ってもクリアできる。開業以来50年近く死亡事故を一件も起こしていない新幹線を見てください。日本の科学技術はそれほど高いのです」
 と推進者が言い立ててくれば、反対するほうがおかしいだろう。
 実際、私は勉強不足だったが「日本は大丈夫だろう」となんの根拠もなく信じ込んでいた。だまされる方が悪いと言われれば、それまでだが・・・
 
 サーカスでライオン・ショーをみせていたとしよう。ライオンがいきなり興奮して、手当たり次第猛獣使いや観客を咬みだしたとする。捕まえ損ねて、文字通り手負いの獅子と化し、もう檻に追い立てられなくなったサーカスに「いやいや、これからも獅子は観客を噛みませんよ」と言われても誰が見に行くものか。それと同じだ。
 化けの皮がはがれても、それでも「安全な原発」なのか。
 
 私が震災直後に「日はまた昇る」で記したごとく、「新規原発を我が町に」という市町村があるなら、名乗りあげてもらいたいものだ。そんな町あるわけないだろう、と断言してもよい。そんなマニフェストを掲げようものなら選挙で落選するだろうし、現職なら首長はリコールされるだろう。
 
 旧弊を徹底的にぶっこわす織田信長のような強烈なリーダーが現れない限り、もうこの国はだめかもしれない。

 1957年ドイツでつわりや不眠に効くというサリドマイドという薬が発売された。その年にドイツで短肢症(肩から手がはえているアザラシ肢症とも呼ばれる)の新生児が15人生まれた。この奇形の自然発生率はきわめて少なく、それまでドイツではたった15人しか生まれていなかった。
 わずか1年間で今までの累計患者と同数になったのである。翌年は100人、1960年には数百人にうなぎ登りに増えた。
 その翌年、千人にもとどかんばかりの奇形児が生まれた1961年末、初めてサリドマイドが奇形の原因であると学会で報告された。
 ドイツはその週にサリドマイドを即刻発売中止し、すべて回収に踏み切ったが、3000人もの短肢症の発生を見てしまった。
 日本では1958年からサリドマイドが輸入発売されていたが、製品の出荷が止まったのはなんとドイツの停止から半年遅れた62年5月、さらにどうしたわけか、販売を停止し回収を始めたのが丸1年ほど経った62年9月だった。このさらなる4ヶ月のタイムラグはなんだ?薬が危険とわかっても、輸入した以上は「まだ売ろう」と思った、としか思えない。
 幸い(とはいうもの発症した方は気の毒だが)流通量が少なかったため、日本では300人ほどの発生だが、薬と奇形の因果関係がわかってから、回収まで遅すぎだ。
 この間の短肢症発生は行政の手続きの遅れか、製薬会社の利権を守る恣意的なものかわからないが、なんといっても厚労省(当時厚生省)の責任は免れないだろう。
 
 アメリカでもまだサリドマイドの危険がわからなかった1960年サリドマイドの販売許可が申請された。
 この時、FDA(食品医薬品局)の審査官ケルシー女史はすでにドイツの短肢症異常発生の論文を読んでいたので、
 「短肢症の原因はこの前後ドイツで発売された薬が怪しい」
 と直感した。製薬会社はこの時はまだ根拠がない、と猛反発したが、ケルシーは頑として
 「怪しいものは絶対に許可しない」と突っぱねた。
 その結果、アメリカでは一人の短肢症の発生もなく、後にケルシー女史はケネディ大統領に表彰され叙勲されたとのことである。
 
 ボストン赤潮事件でもそうだったがアメリカ人リーダーの職務の信念と責任感、そして正義感には素直に頭が下がる。→「ボストン赤潮事件」を読む
 おそらく、アメリカ官僚はしがらみが一切ないのだろう。日本のように許可する官庁が製薬会社と昵懇になってしまっていたら、たとえ怪しいと感じても「ま、いっか」と言って許可し、患者が大量に出ても認可した官僚が逮捕されることはない。(そういう法律でも作ったら少しは責任感が出るかもしれない)
 日本にも批判を恐れず自らの信念と正義感で動く政治家や官僚が欲しいと思うのは自分だけではないはずだ。
 菅首相は自分こそそれだ、と言いたげだが・・・(苦笑)

 さて、プロメテウスが神の火を盗んだことをしつこく忘れないゼウスはもう一つ意地悪をした。(いいかげんにして欲しい・・・)
 
 完全無欠の女性を作ったのである。
 ゼウスの子供たちであるオリンポス神に命じてヘパイストス(鍛冶の神)が泥から完璧な体を、アテナ(知恵の女神)が女性としての家事技能と知恵、アフロディティ(美の女神)が男性を苦悩させる美貌、ヘルメス(技能の神、泥棒の神の異名を持つ)が狡猾な心と好奇心を与えて、決して開いてはいけないと言い含めた箱を持たせ、プロメテウスの弟のエピメテウスのもとに送り込んだ。これがパンドラである。

 エピメテウスは神々の粋を集めて作られた完全な女性であるパンドラに当然「いちころ」だった。兄のプロメテウスに常々「ゼウスの贈り物に手を出すな」と忠告されていたにもかかわらず、パンドラと結婚した。
 ま、これは男性ならわからないでもない(笑)
 
 パンドラは良妻だったが、エピメテウスの不在時、好奇心に負けて、箱を開けてしまう。この時、ありとあらゆる災厄(病魔、苦しみ、悲しみ、ねたみ、犯罪など)が飛び出していった。パンドラはあわてて箱を閉めるが時はすでに遅く、世界は災厄に満ちてしまった。
 
 周知のごとく、パンドラの箱には小さな「希望」だけが残っていたという。
 
 完全な女性であるパンドラは立ち直りも早い(笑)
その後、気を取り直しエピメテウスと仲むつまじく暮らし、娘ピュラを産む。このピュラと夫のデウカリオンが世界を滅ぼしたメソポタミアの大洪水から生き残ったたった一組の夫婦で現代ギリシア人の祖となった。
 
 パンドラの「希望」が娘夫婦を救ったのか、この神の火の寓話は現代の状況に暗示的である。

 ウラニウムから生み出された地上最悪の物質放射性プルトニウム、この発癌作用はきわめて高く人が累積0.2mgを吸入するだけで肺ガンを発生させる。このプルトニウムだって原子炉が開放されれば空気中に飛び出てくる。ましてや福島3号機はプルサーマル(プルトニウム原料)なのだ。その半減期は2万4000年、もはや一度制御装置外に出たら人間の歴史が続くくらい消えないといっていい。
 命名すらさらに皮肉である。プルトニウムとはまさに「地獄の火(プルートーの火)」の意味だからだ。

 神の火(ついでに地獄の火も)を開放してしまった人類に希望が残っているのか、それは我々のこれからの行動にかかっている。
 もう一度、みなの心に問いたい。それでも原子力発電なのか?と。

*高速増殖炉もんじゅのトラブル:2010年8月炉内中継装置落下事件。これにより実験運転は無期限停止。2012年8月復旧完了したがいまだ稼働していない。

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2012年03月09日金曜日「Fight Fire with Fire」
 Fight Fire with Fireとは慣用句で「火をもって火で戦え」という意味になる。日本語では「攻撃は最大の防御」とか意訳されることがあるが、「毒をもって毒を制す」の方が重ね言葉も相まって座り心地がよいようだ。

 さて、先の英語の慣用句を聞くと私はいつも古事記のハイライトシーンである、アメノムラクモ(天叢雲)の剣を持ったヤマトタケルノミコトを思い出してしまう。有名な神話であるが、私より下の世代はもうヤマトタケル東征伝説などは知らないであろう。
 
 蝦夷征伐を景行天皇に命じられたヤマトタケルはミヤコがある畿内から東を旅して駿河の国(静岡県)まで来た。蝦夷である荒ぶる神々と比されたその地の豪族は結託して、西から来た征服者のミコトを快く思わない。そこで、ミコトを騙すことにした。平和裡に降伏をよそおい甘言を弄してミコトは平原に誘い込まれる。
 ミコトは逃げ場を封鎖された後、四方から火をつけられた。
 瞬く間に業火がミコトを包み込んだ。
 絶体絶命のその時、ミコトは神剣アメノムラクモで周囲の草を払い、火打ち石で逆に内側から草を燃やす。向かってくる業火に対して、「fight fire with fire(火をもって火と戦う)」で対抗したのだ。
 
 立ち向かった火はたちまち反転し、八方に戻り敵に襲いかかる。ミコトは逃げる豪族たちを追いかけ打ち倒したという。
 この時よりアメノムラクモの剣は草を払って難を逃れたことより草薙(クサナギ)の剣と呼ばれ、歴代天皇に代々受け継がれる三種の神器の一つとなった。このヤマトタケルの伝承より静岡県のこの地は焼津と名付けられた。静岡市を挟んで西側に草薙というJRの駅もある。どっちも火を放たれた原野からついたのなら、どれだけこの原っぱは広かったんだ?
 
 後になってFight fireという言葉そのものも「火と戦う」ということから「消火」という意味合いが生まれた。
 すると、火で消火しろ、ということになり、私がヤマトタケルを思い出したこともあながち遠くあるまい。しかし、毒をもって毒を制する、という日本語訳の使い方だとどうもマイナスのイメージがつきまとう。
 
 この慣用句を使うシーンを想像すると、たとえば悪人を退治するときに悪人を使って一掃するとか(「ワイルド7」(望月三起也・著)がその発想のキモ)あまりいい感じはしない。
 
 だが、医療ではその考えが徹底していて、むしろその使い方しかあり得ない。
 
 少量の毒を人類は常に薬として用いてきた。トリカブト(漢方のブシ)しかり、最近では生物界最強の毒であるフグ毒テトロドトキシンもシワ取りだの、膀胱の筋肉がこわばって排尿障害になるときなどにも使っているくくらいだ。だからいつも同じことを言うようで恐縮だが、体にいいものを摂りすぎるとそれは毒ということになる。それが、なんにせよだ。

 ところで、体内に発生する毒はそれを速やかに排除する機構が体には備わっている。たとえばアルコールなどの猛毒は体に入ってくると酵素によって毒性の弱いアセトアルデヒドに次々に変換される。そのアセトアルデヒドは溜まってくると吐き気や頭痛を引き起こす。もともと、アルコールなど体内で発生しない物質なのにそのような酵素はもともと何のために用意されたものなのだろう?
 実際、この毒素を分解できず、文字通り一滴のアルコールを受け付けない体質の人も日本人に多く約2〜3%の人は酒が全く飲めない。
 
 体外から入ってくる毒はともかく、体内で作られる毒素は肝臓で代謝され、尿となって腎臓から捨てられる。よってこの二つの臓器がやられるとお手上げである。だから物事のキモは昔から「肝腎(肝心とも書きますが・・・)」と呼んでいた。
 
 さて話は変わるが、体にいいものと連想される酸素のことである。これだって毒である、というと皆さんはびっくりされるかもしれない。

 生物は海からあがって自力で動く動物となった時、重大な決断を迫られた。
 水の中より温度調節が楽で移動もしやすい。しかし、そこにあったのは葉緑素生物が太陽の光エネルギーをもって、大気中にまき散らしている猛毒・「酸素」の存在であった。
 単細胞生物である細菌類はこの酸素に出会うとたちどころに死滅するグループしかなく、(今でも酸素が嫌いな菌は地中に残っている。代表格は破傷風菌)
 おそらくばたばたと屍を築いていったことだろう。

 酸素は常に不安定で、ほかの物質と結合しやすく、酸化させやすい(サビさせる)だけでなく、爆発するほど燃えやすい。こんな危ない気体であるのは高エネルギーを持つイオン化しやすいからであろう。さらに、結合してオゾンや過酸化水素となったりすると生物の細胞を傷つけ焼き尽くし、たちまち殺してしまう。殺菌能力が抜群であるオキシフルは酸素のその過激な性質を利用している。
 
 ところが、ある原生生物の一種が、炭水化物を燃料とし酸素を体内で燃やして莫大なエネルギーを得る手段を手に入れた。それが陸に上がった動物すべての細胞に取り込まれて、そのエネルギー・プラントとして共生するようになる。これが我々の各細胞に寄生するミトコンドリアである。毒をもって毒を制したといっていい。と、いうより禍を転じて福となす、としたわけだ。
 ミトコンドリアと共に生きていくことを選択した我々も含む動物は酸素を常に取り込まないと死んでしまうという皮肉な結果にはなったが。
 
 さて、ミトコンドリアが酸素を使ってエネルギーを得るとき、活性酸素という酸素を越えた毒性を持つ排気ガスを出す。
 この活性酸素は細胞の最も大事な中枢であるDNAを切断する。切断されたDNAは修復可能なら大急ぎで取り繕うが、もはやダメとわかると「自殺屋」が発動して細胞自体を分解死滅させる。誤った変異DNAが増殖すると危険だからだ。この自殺屋はひどい言い方である。
 
 実はむしろ腐ったリンゴを取り出し、箱全体のリンゴを守っているので、ガーディアン(守護神)と呼ばれているのだ。だが、やっている仕事は自殺屋の方がわかりやすく正確だ。
 
 活性酸素はこの大事な守護神すら破壊するから始末に負えない。活性酸素が本体の核にあるDNAを壊すと細胞が劣化し生物は老化が進む。そして、守護神を破壊すると、DNAが自殺できなくなりミスコピーが制御できなくなり癌化する。
 少ない燃料から莫大なエネルギーを得て、危険な排気ガスを出すという図式。そしてその使用済みの燃料をどうしようか、という話。最近よく耳にしませんか?
 
 そう、原子力発電に似ている。

 大きな違いは生物の細胞はヒトの浅知恵ほど愚かではなく、危険物の処理法をちゃんと考えた上でこのシステムを稼働している。すなわち活性酸素が作られていくたび無毒化して捨てる方法だ。
 それにはスカベンジャーと呼ばれる酵素が活躍する。スカベンジャーとは「ゴミ拾い屋」とか「死肉あさり(ハイエナやジャッカル)」という意味で自殺屋よりひどいニックネームだ。
 だが、これらは皆さんもよくご存じのビタミンC、E、カテキン、フラボノイド、βカロテン、ポリフェノールなどなどで、大変人類から好まれている。とてもスカベンジャーなどとは恐れ多くて呼べない(笑)
 
 そして活性酸素を除去し消費されるスカベンジャーはほとんど体内で生成されない。ビタミンCなどは不思議なことに動物ではヒトとサル、モルモットなどのごく少数の動物で作られないのだ。他は大多数の動物はビタミンCを体内で作っている。
 
 そうか!それなら、スカベンジャーをいっぱいとればいいんだな?
 ということになりかねないが、それほど事は単純ではない。
 
 βカロテン(カロチンはドイツ語読みで最近はカロテン)は黄緑野菜に多く含まれるビタミンAの先駆体である。抗酸化力は強く、色の濃い野菜はこのカロテンを作る。そのわけは太陽の紫外線から自分の細胞を守るためだ。紫外線はきわめて強く活性酸素を作り出し、細胞をぼろぼろにする。ひどい日焼けを想像してもらえばよい。
 
 そして、当然そのβカロテンはヒトの活性酸素退治に期待された。

 しかし、βカロテンを研究した結果、多くとればとるほど、喫煙者の肺癌の発生を高めたのだ。
 また、ビタミンEも抗酸化・アンチエイジングビタミンとして有名だ。このビタミンEもとればとるほど比例して、生存率は下がり、必要量とされるほんの少し摂取している人たちが最も長寿だった。このパラドクスはなぜなのだろう?
 
 実は活性酸素は老化や癌化の原因という悪い面だけでなく、そのDNA殺傷能力を拝借して、白血球やリンパ球が菌やウイルス、そしてもちろん反乱軍である癌細胞を退治する武器として使っている。白血球が菌を取り込んだときに活性酸素で焼き尽くし、もちろん相討ちになるのだが、そのおかげで私たちはおいそれと菌や癌にやられないで日々過ごしている。
 
 ビタミンを大量に摂取することは、戦争で最前線で戦っている兵士から、その武器のを取り上げて「丸腰で戦え」という命令と同じだ。保っている戦線はどうなるだろう?fight fireにはやはり火が必要なのだ。
 
 またある種の活性酸素は血管の壁に作用し、速やかに血圧を下げ、心臓の栄養血管である冠動脈を拡張させることがわかっている。それも大量の抗酸化物質で無力化してしまうと血圧は上がりっぱなしになってしまう。
 
 活性酸素こそは文字通りfight fire with fireを不言実行(?)している。

 たかが老化の原因だからといって、排除するような暴挙にでない方がよい。
 
 実は動物の寿命は体重あたりの酸素消費量にきわめてよく相関する。
 小さい体の生物は酸素消費量が多く、心拍数もかなり高い。寿命は数年がせいぜいである。酸素を消費することイコール活性酸素によってDNAの傷が蓄積することである。興味深いことにDNAがヒトの97%まで同じで体型もほぼ等しいチンパンジーとは酸素消費量は変わらない。しかし、ヒトはチンパンジーの約2倍長寿である。チンパンジーに限らず、ヒトと同じ酸素消費量の体格の動物よりはるかに長寿であるのはどうしたことか。その秘密は活性酸素を除去する酵素の活性がチンパンジーの数倍高いのだ。それだけで長寿というなら、もうそれ以上、外から活性酸素除去をしなくてもよいのではないか?
 
 この間もトマトがスーパーから消えただの、○○は体にいい!という、マスコミの見出し記事にだまされる方があとをたたない。そういうヒトは活性酸素の例を思い出して欲しい。造物主が用意した生き物の生命保持装置はあるものを摂っただけで覆される様なそんな単純でヤワなものではない。
 
 この間もビタミンEを摂りすぎると骨粗鬆症のリスクが増すという報道もあった。

 まあ、こうなると何が本当か、よくわからないが元気な長寿者はある特定のものだけ食べていることはどうやらなさそうだ。何事もほどほどがちょうどよい。色つき野菜をいろいろ楽しんで食べることが大事ではないか?
 
 =注=Fight Fire with Fire 1983年 kansas「Drastic Measures」の曲名より。
 今も聞いてます。去年、来日した際、アンコール1曲目のでした。えらく興奮しました。また来ないかなぁ。
 もともとが慣用句なので他にも同名異曲はあります。アメリカのハードロックバンド、メタリカの曲の方がはるかに有名かもしれません。(1984年)こちらはギンギンのロックです。


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2013年01月27日日曜日「ノロとケガレ」
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
  
 新年のっけからお小言みたいなお話しで恐縮だが・・・ 

 さんざん日本を誉めてきたが、たまに理解しがたく、賛同できない点がたまにはある。その一つに部落問題がある。
 明治維新で士農工商の身分制度を廃してきてから100年以上、その時の経過を経てもそれでも抜けきれがたい差別がまだ存在する。
 関東はともかく「あいつは部落出身」というさげすみにそれがどうした、と言い返せない風潮が特に西日本には根強くあるそうだ。一体、人を出自だけでもって評価してよいものかどうか、普通の教育をうけていれば正否は自明であろう。
 
 部落の発生、そもそもがくだらない土着の迷信である。
 
 人類にとって必要な皮革製品。それを製造する職種もまた必要であったはずだ。ところが、皮革を作るためには動物の皮を剥ぐ手順がどうしたってある。日本では動物の死や血に常に関わる仕事、それを扱う者を「ケガレ」が染みついているとして忌み嫌ってきた。彼らが作る製品は必要なくせにである。
 
 余談だが、我らが関わる医療だって常に死と血は関わっておりさんざんケガレてはいるのだが、今のところ後ろ指はさされていない。またその考えから言えば漁師だって、干物業者だってケガレているだろう。魚類は哺乳類のエサで死んでもらって当然と思っていたのだろうか?万物の命はすべて同じという教えの仏教をずっと受容してきた日本人なのにその点はやはり理解しがたい。
 
 皮革業者はケガレているとして、居住区を定められ、長い間不出の扱いを受けた。それが部落の発生だ。教科書で習った「穢多(エタ)」はケガレオオシそのままの意味である。職業に貴賎なしときれい事を言うくせに、それが建て前であることは明白だ。島崎藤村の不朽作となった「破戒」はこの差別が下敷きで生まれた。
 
 皮革業者が差別を受けているなどとは日本以外では考えられないだろう。その迷信がなくなっても、まだ部落出身とさげすむ。ヤンキーが革ジャン着て、蛇ガラのベルトつけてそれを言うのなら、
 バカか、ケガレているのを身につけているのはお前だろう、
 と言いたくなる。
 これが不当であり、社会におけるいじめであることは間違いない。
 社会ぐるみで目に見えないケガレを忌避する、その心情は今でも残っていると思うのはこれだけではない。
 
 去年末からこの冬ノロウイルス感染症が大流行した。正月休みで一時減少したが、再び増えてきたような印象がある。
 毎年のように繰り返される感染症、インフルエンザもそのたぐいだが、今年度の流行の原因はノロウイルスの遺伝子変化が起こり、例年と違い変異したため、大流行になったと説明された。ウイルスは変異をおこすと今まで体内で作られた抗体がまるで効かず大流行の原因になる。2009年のあの新型インフルエンザも同じ理由で全世界を恐怖の底にたたき落としたばかりだ。
 
 ウイルスはあまりにも小さいため、細胞に寄生してその遺伝子の一部を勝手に借りて自分のコピーをせっせと作り生き延びていく。自分の力だけで生きていくことができないため、安楽の地を求めてしょっちゅうというか、常に体の細胞をめがけて侵入を仕掛けてくる。
 今まで一度も出会ったことのないウイルスだとあっという間に体内で増殖されて、いとも簡単に発病しやられてしまう。子供時代における、はしかや水ぼうそうがその代表格だ。
 しかし、これらの病気には生涯で二度とかからない。それというのも感染した後、体の中で「抗体」というタンパク質が作られ始めるためだ。このシステムは知れば知るほど本当に感心する。抗体を作る細胞は普段なにもしていないように見えるが、たとえばはしかウイルスの侵入を察知したら、体内でたちどころにアラームが鳴り響き、はしか抗体を作る免疫細胞が大活躍、大増殖する。このアラームのシステムもよく考えられており、数々のリンパ球の共同作業で流れるように行われる。うっかり、二度目に入ってきた「はしかウイルス」は即時によってたかってこのリンパ球の作る抗体につぶされ、排除される。
 だから、水ぼうそうやおたふくに感染した子供たちを診察している私たちはいつもウイルスを吸い込んでいるが、いっこうに発病しないところを見ると、この警報装置がいつも作動しているに違いない。

 ところが、ノロウイルスに感染しても抗体を作りにくい、というか、ほとんど期待できない。ならば、なぜ治るかと言えば、これらのウイルスは十二指腸・小腸粘膜の細胞にしか寄生できないため、下痢や嘔吐によって大量に流されて駆逐され、感染した粘膜細胞が脱落して治癒する。ワクチンや治療薬はまだ存在しない。はしかや水ぼうそうで免疫力を発揮する抗体はノロウイルス感染ではたとえ粘膜で作られてもすぐ脱落してしまうのかもしれない。
 そもそも抗体は数週間経たないと作られない。そんなに長く感染状態にないノロではやはり無理なのだろう。
 だが、変異型が現れたために感染者が急増した、というのなら、やはり、今までのタイプには少し防御力を発揮した抗体は作られていた可能性はあろう。

 ともあれ、志木でも大量に患者さんが押しかけることとなった。あっちでもこっちでもゲロゲロ、ピーピー。それは症状だから仕方がないが、聞かれることがだいたいこんな風だ。

「ノロじゃないですよね」

 この質問にはとても困ってしまう。ノロか、といわれれば高い確率でそうであろう。かといって、インフルエンザや溶連菌と違って、検査したわけではないので、断定はできない。また症状をもってノロと診断することもできない。
 熱がほとんどなく、体も元気なインフルエンザもごまんといたところをもってしても、ノロも似たようなケースが多いからだ。同じノロにしてもなんとなく気持ち悪くて一回吐いた、くらいの人から、上からも下からも嘔吐下痢し続け、脱水が高じてついに点滴に至るまで、の人だっている。こういうことを皆さんに言うと
医者もなんだか頼りないなぁ、と思われるに違いない。

 しかし、私に言わせれば、
「症状だけでノロとわかりますよ。間違いありません」と断言する医師の方がうさんくさいのだ。ノロをインフルエンザといいかえてもいい、例外なんていくらだってある。ノロかどうか症状じゃわからないなら、じゃあ、検査してくださいよ、と患者サイドにしてみればこういう流れになるのは明白である。

 インフルエンザはその場で感染したかどうかわかるキットがある。ノロにも迅速診断キットがあるにはあるが、陽性率は低く、出ないからといってそうでないとは限らない。また乳幼児や高齢者以外は保険がきかず、自費検査になってしまう。
 検出されたところで特効薬があるわけでもなく、どうせ1〜2日で治ってしまうし、コストパフォーマンスが悪すぎるため当院では施行していない。

 ところがたまに
「会社がノロかどうか調べてこいっていうんですよ」という困った申し出される人がいる。キットがないし、便検査の外注になるから4〜5日かかりますよ、しかも自費です。というと大抵
「もう一度、会社に聞いてきます」という返答がほとんどだ。それなら、必要ないと会社が言うと思いきや、「聞いてみたら自費でもやれ、っていうんです」と困り果てる方もいる。
 それを詳しく聞くと、勤め先の立て替え払いではなく、完全に患者さんの持ち出しだそうだ。病気で苦しんだあげく、治療に直結しない検査されて、さらに手出しの追い銭か?これこそ泣きっ面に蜂ではないか。

 社の方針なのだろうが、あまりに非情ではないか?
 ノロなら社に来てもらったら困るという意味であるなら、結果が出るまでたとえ治っていても働くな、という意志の表れであろう。健康成人なら割とすぐに治癒してしまうのにわざわざ高い費用を払って、家で寝ころんでいるという状況は労働力を遊ばせているという意味で社会的にはかなりマイナスでないか。正確にはノロは症状が消失しても、なおしばらくウイルスを排出するが、蔓延させるだけの力はない。周りのみんなが食事の前の手洗いなど衛生観念をしっかり持てば感染を防げる。
 第一、ノロには不顕性感染と行って「ウイルスが体内にいるのに症状がない」という状態だってあるのだ。この方がよっぽどタチが悪い。ウイルスを排出しているのに野放しだからだ。下痢したらノロかどうか調べてこいなどとうるさく言う会社はどうぞ症状あるなしにかかわらず、一人下痢が出た時点で全員の便検査が必要だろう。
 ウイルスがいる人間を一人残らず排除したいのならば。

 社会生活というのはそんな四角定規に運営されていない。日本人はもっとおおらかな国民だったような気がする。ケガレを忌避するのはともかく。
 下痢が治ったら笑って暖かく迎えてやればいいではないか。お互い様だし、村八分にする必要はない。硬直する組織はしなやかさを欠いて必ず破綻するだろう。こんなことですら私は組織ぐるみの差別でありいじめだと思っている。

 いじめで思い出したが、

 2011年のウイルス学会だかで日本から提言がなされている。
「ノロという姓の子供たちがいじめにあっているので、このウイルスの名称を変えてもらいたい」
 なるほど野呂さんはネットの名字辞典で調べると日本名字多い順から893位、総計およそ21,800人日本にいらっしゃるとのこと。ノロ姓の子供たちは冬が来るたびにいやな気分になるに違いない。
 
 元々オハイオ州ノーウォーク(Norwalk)で発見されたウイルスがもとでNor-oウイルスと命名されたのでノーウォーク・ウイルスに名称をもどせとの発言だろう。欧米にはノーウォークさんはいないの?とツッコミを入れたくなるが、もともと外国人の姓は職業や聖書からの名を元に作られたものが多く、地名を名乗る日本姓とは違いきっとノーウォークさんはほとんどいないのだろう(私の推測だが)だが、いまだノロが改名されたという報道は聞かない。

 そういうノロさんの苦しみは一切報道せず「ノロウイルスで死者」と喜び勇んでアップする日本のマスコミは知らずにいじめを助長していることに気づいていないのかもしれない。
 皆が恐れるノロウイルスにはそれほど殺傷力はないのだ。死亡された方はほとんどが寝たきりで吐物を詰まらせて窒息するか、また大量の胃液と吐物を肺の方に吸い込んで、重症化する「誤嚥性(ごえんせい)肺炎」で亡くなるので、ウイルスの能力とは全く関係ない。だから、自分でトイレに行って吐ける人はまず死なないといっていい。

 ノロ姓の方だけでなく感染者をハブるこの風習はぜひやめてもらいたい。

 ケガレてはおらずウイルスにやられた不幸な方であり、そもそもケガレの思想自体ナンセンスであるし。

 補遺:インフルエンザを隔離する異なる理由がある。ノロはほとんどが接触・経口感染で感染者の周りの人たちが食事の前の衛生に気をつければ防げる。ところがインフルエンザは飛沫核感染で呼気の水蒸気、くしゃみ、咳で数mの飛距離があり、乾燥している空気ならば長時間漂い続ける。また症状が消えてもなお数日感染能力が残ることが多い。だから、知らずに蔓延する。それが一定期間ハブられる理由で決していじめではない。この違いをよくマスコミは報道してほしい。


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2013年03月31日日曜日「予期せぬエラー」
この間スマホを換えた。
しかし、これがまたなんの加減かよくフリーズする。突然、全く反応しなくなるのだ。仕方がないから強制終了をかけてリセット。しばらくはサクサク動くが、ゴミがたまるのかしばらくするとまた同じことの繰り返しだ。

 ウインドウズ95くらいまではパソコンも「予期せぬエラーが発生しました」とよく仕事をいいところでボイコットされたものだ。保存するのを忘れていると、それまでの苦労が水の泡。
 が、ウインドウズも進化するとだんだん減ってきたような気がする。
 スマホもあれほど小さいガタイにぎゅうぎゅうに機能を詰め込んでいるのでなにか無理があるのだろう。

 文明の進歩はとどまるところを知らない。が、爆発的に地球上で増える人類はやはり環境を大きく変えてきたと言わざるを得ない。

 それなら、人類が「予期せぬエラー」で作り出してしまった病気とは?と、ふと唐突に考えてみた。

 成人病と呼ばれる動脈硬化や高血圧、糖尿病などはどうだろう。これらは飽食、長命の結果であることは間違いないが、そんなに食べられなかった紀元前から認められていた記録がある。
 先天的な高血圧やホルモン異常は時代を問わずあったろうから、単に近代どんどん増えてきただけに過ぎない。
 
 それなら4大公害病はどうだろう?
 
 これはまさに文明が環境を破壊して生み出された痛々しい爪跡だ。
 江戸時代までの完全リサイクルエコ社会では決してなかったであろうこれらの病気は今でも苦しむ人たちがいる。

 私が小学生の頃は初夏からほぼ毎日のように光化学スモッグ注意報が出されていた。プールは中止になり、外出も控え、深呼吸をするとなんだか息苦しかったし目もしょぼしょぼする。
 晴れているのに空が異様に白かった。

 最近の中国のPM2.5禍をびっくりして眺める人も多いだろうが、私どもの年齢だと
 「ああ40年前の東京だな」という印象だ。
 日本が懸命に廃棄物をクリーンかしてきてもとの青空が戻ってきたが、あの国は自浄作用があるのだろうか?ずっと垂れ流しを続けるような気がするが、それの方が心配だが・・・

 また、そのころ、人工甘味料であるチクロなどを筆頭に発がん性が指摘される食品添加物も次から次へと禁止物質が増えていき、それまで普通に摂取していた幼少だった私たちはさぞかし体中有害物質まみれであったことだろう。なにしろ、駄菓子屋の色とりどりで甘すぎるジャンクフードが大好きだったし。

 だが、人間はなかなか強くできているようで、20年くらい前なんらかの雑誌で
 「高度成長期に幼児時代を迎え、空気も食事も化学物質漬けになっている1960〜70年代生まれの子供たちの平均寿命は40歳くらいになるだろう」
 と論文があったのに驚いた。これは私らの世代だ。が、いまだに私らの年代はぴんぴんして、同窓会をやっても半数が死去したとは聞いてないところを見ると、少々猛毒に「泥まみれ」になっても長い年月だと少しずつ浄化されるのだろうか?
 その時に染色体や細胞が影響を受けなければ、自己修復してリスクは元に戻ると考えていいのかもしれない。タバコの害なども10年の禁煙で肺癌のリスクはかなり低下するところをみると、この考え方はあながち的外れでないと思う。

 放射能もそうであるが見えない恐怖というのはなかなか実感できない。

 さらに、公害病ではないが、文明の機器が生み出した変わった病気を二つあげてみよう。

 1976年アメリカペンシルバニア州で在郷軍人大会が開かれた。その際参加者と周囲の住民220人ほどが一斉に原因不明の肺炎にかかり、抗生物質などの治療を行ったがあまり効果なく、40人近く死亡した。
 未知のウイルスなのかと騒然となったが、死者や患者の肺から新型の菌が多量に検出された。
 今まで見たことのない肺炎菌なので「在郷軍人(レジオネイヤー)」にちなんで「レジオネラ菌」と命名された。
 調べてみると、この菌は湖沼にもともと多く生息し、ありふれたもので太古より存在しているのである。

 レジオネラ菌のいる水や泥を飲み込んでも発病はしない。
 この菌は細かい水蒸気に含まれて肺胞の奥まで吸い込まれた際、そこで初めて体内に侵入する。
 不思議なことに水のままでは水滴が大きすぎて肺胞気管支まで届かないから、感染するにはあくまでも蒸気の状態である必要があるのだ。(例外はあるが)
 
 在郷軍人会の悲劇はとなりのビルの冷却塔(昔の気化熱を利用したクーラー)から発生したレジオネラ菌入りのエアロゾルを吸い込んだために発病したことが判明した。

 レジオネラ菌は水のぬめりなどの中で36度くらいで爆発的に増殖する。暖かい環境でたまり水などでは菌がどんどん増殖してしまう。しかし、もともとが弱い菌だからほかの菌が増殖するとたちまちおとなしくなる。だから、普通の「レジオネラ入りのため水」を飲んだところでこのレジオネラ感染症が起こることはなかった。(下痢などほかの感染症にはかかったかもしれないが)
 レジオネラが猛威をふるうその偶然が重なったのが例の冷却塔が原因だったことになる。

 最近、24時間循環式温泉というものが多くなってきた。あちこちのスーパー銭湯もこれに含まれる。当然、衛生には十分気をつけているはずだが、このレジオネラ菌がもしこの循環湯の回路に侵入するとやっかいなことになる。通常の塩素消毒ではあまり効果がないのだ。

 普通の塩素消毒では菌がバイオフィルムというバリアをはるために、ほかの菌は倒せてもレジオネラだけは生き残る。それを打たせ湯、ジャグジー、など大量の水蒸気が発生するような循環湯につかると、その蒸気を吸ってレジオネラ菌を肺胞まで届かせてしまう。
 事実、温泉好きの日本でも茨城県の入浴施設で2000年に143名同時発生(うち3名死亡)、2002年宮崎で295名(うち7名死亡)がレジオネラ肺炎に感染した。
 その後、これらの循環湯施設は定期的に湯をおとし、乾燥しぬめりをとり、消毒法を徹底したため、湯での集団発生は少なくなったが、単発でどんどんレジオネラ肺炎が増加しているとのこと。それはなぜか?

 そのわけは、超音波式の加湿器から感染する例が増えたせいである。冬に大活躍するこの機械はやはりあまり掃除をしないことが多い。暖かい室内ではどこでも水があれば生きていけるレジオネラ菌はタンクでどんどん増えていく。その水蒸気を思いっきり吸い込んだらどうなるか?それが増加の原因のようだ。
 因みに熱い蒸気がでる加熱式にはその恐れはない。(といってもタンクはちょくちょく掃除した方がよいのは言うまでもないが)
 
 超音波式加湿器は低電力でエコであり、蒸気に触っても火傷をしないため人気の商品だ。しかし、この菌の感染経路になるので、定期的に水タンクの消毒乾燥をしないずぼらな人にはあまりお勧めはできない。
 レジオネラ菌は診断さえつけば、それに効く抗生物質は存在するので、いかに早期に気がつくかである。循環式温泉へ数日前に行ったかどうかや加湿器を使っているかの話はよく聞かなくてはならない。
 在郷軍人病と訳されるこの変わった病気は水を常温(または微温湯)で水蒸気に変える機械をあみ出してから生まれたといっても過言ではない。

 話は変わるが、最近はiPadやスマホをはじめとした携帯端末が爆発的人気を得ている。昔は液晶などはなかったからこの技術はありえなかったし、タッチコマンドはプラスチックに微弱電流を流すことでできるようになったから驚きである。さらに省エネのLED発光、ブルーライトLEDまでできてその技術革新はとどまることを知らない。

 ところが、うまい話には落とし穴があって、このブルー領域のLED発光は実に目によくないらしい。

 すでに10年近く前の実験になるが、アカゲザルの頭部を固定して40分青色光LEDが出す波長460nmを照射したところ、網膜上に50%の障害が発生した。
 照射後2日でブルーライトが当たった網膜に一致して白色の脱色が見られたとのこと。いわゆる網膜白斑症の発生である。
 さらに90分照射したサルでは90日後の網膜で視細胞の変性が見られたそうだ。これは著しい視力の低下を引き起こす。
 
 この青色LED光460nmは紫外線一歩手前の波長なのでほかの可視光線に比べ高エネルギーで、かつ青いためかまぶしさをあまり感じないことが理由なのか瞳孔も縮小しない。明るいと瞳孔が収縮して光から身を守る機能が発動しないのだ。
 
 電車で一心不乱にスマホを見て、顔を近づけている人を見ると「おいおい大丈夫か」と言ってやりたくなってしまう。
 スマホは小さいためかどうしたって目と画面の距離が短い。光エネルギーは距離の2乗に反比例するので近づけば近づくほど障害力は飛躍的にアップする。だから、大画面のパソコンはむしろ比較的安全かもしれない。
 
 またこのLED光は網膜にあたるとメラトニンという睡眠ホルモンの分泌を抑える働きがあるため、ずっとスマホを見続けるとメラトニン欠乏の不眠症になる。

 たとえば、スマホを布団の中でいじる→おもしろいせいか。メラトニン停止のためか眠れない→ずっとスマホをいじる→視力低下。この流れは困ったものである。スマホはすぐバッテリーが上がるから、省エネ、環境的にもエコでないし。
 
 いくら便利な機械でも目をつぶされたらシャレにならない。そんなに好きでも盲目になったらスマホもいじれまい。
 だから私もスマホは持ってはいるが、あくまでも電子手帳+緊急連絡用ツール+万歩計くらいしか使っておらず、ゲーム類は一切インストールしていない。
 もっともこれは青色カット眼鏡をかければ未然に防ぐことのできる障害ではあるが。
 昔は逆に赤い光は目が疲れるといっていわれていたものだが・・・目にはむしろ赤色光が優しいようである。

 これも人間が作り出した病気の一つといえるのかもしれない。

 便利だな、と思ってもそれを作り出したときは、その技術の先に思いも及ばない障害が隠されている。しかし、それは仕方がない。技術者は医療従事者でないから罪はない。

 これからも人間が作り出していく新たな病気は現れるかもしれない。というより必ず現れるだろう。

 放射能の障害はかなりよくわかってきているが、今まで人類が遭遇したことのない状況、微量の放射線を持続的に浴び続ける、また放射性物質を食べたり吸い込んだりして蓄積していくという例の原発事故である。

 専門家が圧倒的に「体に不利だろう」と主張する中、「いや、少量の放射線はかえって体によい」という者もいる。

 「どんな毒物も少量なら薬である」というところと根拠は一緒だ。

 これが提唱されてから数十年経つがいまだに結論は出ない。これを「放射線ホルミシス効果」と呼んでおり、ある程度の説得力を持つのでやっかいだ。
 だが、発癌においては放射線ゼロの状態がもっとも好ましいし浴びた線量に比例して発癌率はアップすると結論はほぼついている。それなのに、長寿効果とかになると少量の放射線被曝は遜色のないデータをたたき出す。このパラドクスは今のところ解明されていない。まあ、発癌するから短命とは必ずしも言えないという事実はほかの致死的な疾患の発病を抑えている可能性は残る。

 医学は奥が深すぎてわからないことだらけである。何を信じるか、何を目指すかは我々は日々精進勉強を重ねて自分で考え判断しないといけない。
 
 と思ってはいるが、プロ野球も開幕したしなぁ。サッカー・ワールドカップも最終予選だし、4月はマスターズゴルフもあるし・・・と逃げ道を探しているこの頃である。


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2013年11月01日金曜日「バッド・ブラッド」
 私のお気に入りの英国ロック・バンドの「イエス」の元キーボード奏者、リック・ウエイクマンが初めてリリースしたソロ・アルバムは「ヘンリー8世と6人の妻」という一風変わったタイトルだった。

 当時私はあんまし世界史の勉強熱心な学生ではなかったから、その非常識すぎるタイトルに、あまり腰を抜かさなかったようだ。
 
 アルバム内容は彼がキーボードを操り、多重録音のインスト・ナンバーが6曲、これが一人ずつヘンリー8世夫人の名を冠しており、佳曲ぞろいである。リリースされてもう何十年も経つがレコード時代から、よく聞いており、もちろんCDに受け継いで今はデジタル・オーディオ内にいる。
 
 そうそう、論ずべきは曲のことではなかった。6人をも妻を持ったヘンリー8世の「業」のことである。
 
 ヘンリー8世は中世イングランド王でバラ戦争を終結させチューダー朝を開いたヘンリー7世の子である。

 学識、語学、武術・スポーツにも長け「弓を引かせたらイングランド随一」とまで言われる。果ては音楽の才能もあり、今日まで伝わる合唱曲も作曲しているくらいだ。それとは別にあの有名な「グリーン・スリーブス」をも作曲したという伝説も残っている。(この説はウィキでは否定されているが)、それくらい多彩多能な君主だったようだ。
 
 万能の天才であり、また6人の妻もめとるがごとく、精力絶倫でもあり、まさに「王の中の王」といった君主だった。
 

 だが、そのヘンリー8世、やらかしたのは6人の妻妾ではなく、「妻」というところが真の驚きだ。
 最初の結婚こそ20年保ったものの、その妻を離婚してからが、取っかえ引っかえ、結婚・離婚を繰り返し、計離婚4人、死別1人(死別はいたしかたない)とあきれるを通り越して、開いた口がふさがらないとはこのことだ。第一、それまで信仰していたカソリックでは離婚を認めていないので、プロテスタントに改宗し、ローマ教皇と断絶したくらいだ。
 
 一般人でこんなことしていたら、まあ、人格破綻者と言われてることだろう。中世の絶対君主はなんとわがままなのか。それでも、ローマ教皇の支配を脱し、絶対王権も確立して、さらにその跡を継いだエリザベス女王で強い英国は完成する。しかし、その華やかなチューダー朝を終焉させた原因が、このヘンリー8世自身と言えるかもしれないのだ。その「終わりの始まり」がこの聡明な君主が罹った病気にほかならず、次代まで影響を残すものであった。
 

 それは、当時まだ珍しい「梅毒」である。
 彼の梅毒は6人の妻たちに次々に感染し相次ぐ王子、王女の死産・流産・虚弱児・産褥熱の原因となった。驚くべきことに最初の妻は8回出産し、ほとんどが死産か夭折、成人したのが娘たった一人。これが後のメアリー1世だ。2番目の妻は4回の出産、うち成人したのが長女のエリザベスのみ。これがかの有名なエリザベス1世である。

 3番目の妻はヘンリー王待望の男児を産んだ直後、死亡した。産褥熱だったと言われる。残されたたった一人のこの王子が後のエドワード6世。

 余談だが、この時からすでにヘンリー8世は精神を病み始めており、エドワードが生まれて嬉しいのか、女性蔑視なのかわからないが、前妻と前々妻の忘れ形見のメアリとエリザベスを王女から庶子扱いの一般人に落とした。
 

 以後の妻からは王の梅毒がすでに進行していたのか、子は生まれなかった。離婚を繰り返す頃から、ヘンリー8世の性格は明らかに残虐さを増しており、罪もない王宮の臣たちを死刑にしたり、ありもしなかった浮気を疑い妻すら処刑する始末。精神を破壊する進行性の脳梅毒だったと後からは診断できるが、この病気は彼一代ではなくチューダー朝自体をむしばんだ。
 

 ヘンリー8世を継いだただ一人の王子、エドワード6世は9歳で王位についた。彼は幼少より病弱で、結局成人できず15歳で病死した。父王が母に感染させて産道で感染した先天性梅毒だったと言われる。後継は異母姉のメアリが継いだ(怖い絵の「レディ・ジェーン・グレイ」がエドワードの死後、9日女王として即位していたがメアリは彼女一派を倒して即位)
 
 即位時の流血もさめやらぬ間にメアリはさらに宗教改革でプロテスタントを迫害し、自国民を300人も次々に処刑したことから、「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」と影でささやかれ恐れられた。(後にカクテルの名前にまでなってしまったが)
 
 メアリはスペイン王太子、後のフェリペ2世と結婚したが、妊娠せず、若い時から老け込みが著しく、視力も落ちていた。彼女もまた長生きはできず42歳で死去する。その不妊と狂気、不健康は彼女もまた父王から受け継いだ先天梅毒のためとされている。
 

 メアリを継いだ異母妹のエリザベス1世はヘンリー8世の血を引く残された最後の王女で、ただ一人長命だった。エリザベスの母、ヘンリー2番目の妻はヘンリーと結婚してすぐエリザベスを産んだため、父はヘンリーでなく独身時代つきあっていた男との間の子ではないかと言われることがある。
 確かに、大英帝国を牽引したエリザベス1世にはどこも梅毒の影もなく、69歳で死去するまで聡明でありつづけた。だが、各国の王子クラスから何度も求婚はあったが、すべてはねつけ生涯独身でいた。
 

 「国家と結婚した」とまで言わしめた彼女は「ヴァージン・クイーン(処女王)」と言われ、今なお英国では人気が高い。
 彼女が結婚に踏み切れなかったわけは、14歳で父ヘンリー8世を亡くすまで、父王の残虐さを目の当たりにし、自らも王女から庶民に身分を落とされ(ヘンリー最後の妻が王女復帰を王に説得してエリザベスは跡継ぎになった)母を始め継母たちが次々に虐待・離婚・処刑されるのを見たため、心理的トラウマを受け結婚生活に自信が持てなかったとも言われる。また、自らの不妊体質に気づいていたという健康問題説も根強い。
 
 ともあれ、チューダー朝は彼女で終わってしまった。その後英国王はヘンリー7世の娘の血を引くひ孫でもあるスコットランド王ジェームズ・スチュアートがエリザベスを継いで、わずかにチューダー朝の血は残ったが、ヘンリー8世の血はすべて絶えた。
 

 ヘンリー8世は6人の妻の他にも手をつけた女(どんだけ〜!少なくとも妻のほか愛妾6人は確認されている)に庶子が一人(リッチモンド公ヘンリー・フィッツロイ)いたが、彼も17歳で夭折。死因は不明だが、エドワード6世と同じ病気、先天梅毒であったことは限りなく怪しい。
 

 これだけ恐ろしい梅毒はヘンリー8世が旺盛に活躍した前の世に欧州には全く存在しなかった。この業病がヨーロッパに現れた時期ははっきりしている。
 

 1495年に突如としてスペイン・イタリアを中心として梅毒患者の報告が現れ、あれよというまに爆発的に拡散した。欧州と南北アメリカ大陸はコロンブスが上陸するまで隔絶されており、そのコロンブスの一行がアメリカの土着病であった梅毒を原住民を介して感染し、ヨーロッパに持ち帰ったものとされている。
 彼の船乗りたちは欧州に帰り、立ち寄る港で娼婦を求め、彼女たちがまた他の客に感染させ、また船乗りたちは欧州航海を繰り返すたびに感染者を増やしていったことだろう。インフルエンザのようにくしゃみなどでは罹らず、性的接触で感染するのは周知のごとくだが、このすさまじい伝播力に驚嘆すべきなのか、人類の飽くなき奔放な性衝動を嘆くべきなのかはわからない。おそらくどっちもだろう。
 
 海を隔てた英国ですら、あっという間に梅毒に席巻される。18歳で王位についたヘンリー8世は幼少時の聡明なエピソードから、成人後に梅毒に感染したはずだ。娼婦など買うはずがないので、王宮にもすでに梅毒が忍び込んでいたのだろうか。戴冠が1509年だから間違いなくその後に違いない。
 
 一方、日本では1512年、京都で梅毒が大流行した記録が残っている。欧州からわずか17年の遅れで日本上陸したわけだ。ちょうどその年、日明貿易の交易船が往復しているので、その乗組員の誰かがもたらしたものに違いない。
 

 日本ではカソリックなど宗教的しばりがなく、江戸時代後期まで性には著しく開放的で、夜這い、乱交当たり前。四季折々の祭といえば、出会い系サイトどころではない男女の交歓の場となっていた。誰の子かわからない子供が生まれたらどうするって?これも驚いたことに、たとえわからなくても(二股、三ツ股交際でも)その父親を決めるのは女性に指名権があったらしい。当時訪れていた宣教師たちもその風習に一様に驚いている。だから、梅毒など爆発的に流行したのはしかたがない。江戸期に至っては「診るもの診るもの梅毒だらけ」と医師であり蘭学者の杉田玄白も書き残している。
 

 日本に限らず著名人たちがこの感染症で次々に命を落としていった。証明されたわけではないが梅毒説が濃厚な者たちも含め、梅毒に悩んで自殺を試みるものも入れると、モーツァルト、シューベルト、モーパッサン、ハイネ、ロートレック、モネ、シューマン、ニーチェ、ボードレール、加藤清正、芥川龍之介などなど。
 
 梅毒で精神を病んだため研ぎ澄まされた感性で作品を残したというプラスの財産も残したが、おおむね短命でその失われた才能量を思うといかにももったいない。
 

 梅毒を起こすスピロヘータという病原体は喜ばしいことに、ペニシリンに滅法弱く、しかも他の菌ならば耐性化というやっかいな現象を引き起こすが梅毒だけはそれがなく、ほぼ60年以上の間、ペニシリンが特効薬であり続けている。だから、過去の病気かというとそれまでだが、最近はHIVと同様増加傾向にあるという。その説明の一つとして、女性側の経口避妊薬の普及などで性病をある程度ブロックできる避妊具の装着機会が少なくなったこともあろう。またそれは同時に子宮頸癌の確率も増やす。
 
 16世紀初頭、わずか20年で地球を一周してしまった梅毒、その時代、大陸間移動は海路しかなくヨーロッパからアジアに至るまでは、喜望峰回りの沿岸航海しかありえなかった。そのインド航路を開発したヴァスコ・ダ・ガマはリスボンからインドまで5ヶ月要した。現在はおそらく飛行機で半日くらいの旅程だろう。そのスピードアップは300倍の短縮にも及ぶ。現代ならどこかの都市で強力な感染症が発生したら、おそらく数日で世界中に蔓延するだろう。
 

 現在、感染症、特にウイルス感染の蔓延を止める武器はワクチンしかない。ウイルスの中でも一度感染したら、ほぼ永久に体内に居座るウイルスもある。
 B型肝炎ウイルス・水帯ウイルス(水ぼうそう)・HIV(エイズ)ウイルスがそれらの仲間である。これらにもし一度罹ったら、治っても、体外にまず排除されないと考えていい。
 

 B型肝炎は抗ウイルス剤やインターフェロンで排除完治できると長い間考えられてきた。ところが、肝臓移植やいろいろな癌や白血病などに免疫抑制剤を使うようになってから、体内から消えたと思われていた肝炎ウイルスが実は潜んでいただけであり、免疫の隙間をかいくぐって(人工的に免疫を押さえ込んでしまったため)大増殖し劇症肝炎を起こすことが知られてきた。これをde novo(デ・ノボ)肝炎と呼んでいる。de novoとはラテン語で「再び始まる」という意味。その後の研究でB型肝炎ウイルスは今の治療では沈静化はできるが、完全に撲滅できないことがわかっている。


 水帯ウイルスも水ぼうそうが治った後、体の奥深く神経節というところ逃げ込みそのあとずっと眠り続け、時期をみて、やはりヒトの免疫の隙間をかいくぐって、皮膚まで這い出してくる。これが帯状疱疹である。帯状疱疹もde novo水ぼうそうといっていい。だから水ぼうそうに一度かかったら二度と治らないと言っても過言ではない。誰もがいつ帯状疱疹を発症してもおかしくないのだ。
 
 エイズもしかり、特効薬はエイズの増殖を抑えるのが主で決して排除できない。エイズに至ってはあまりにも変化が激しく、ワクチンも作れないし、今のところその技術もない。
 

 私が不思議に思うのはエイズはともかく、B型肝炎ウイルスも水帯ウイルスも一度かかるとやっかいなことがわかっていながら、そしてさらにワクチンが存在するのに、なぜ二つとも公費で接種できないのだろう?自治体によっては補助するところもあるが。
 
 乳幼児がうつ他のワクチンは大半が公費であるのに、特にこの二つが自費で打て、というのは財政上の何か深い訳があるのか?
 

 日本は感染症の惨禍に巻き込まれたこともなく、また江戸時代まで梅毒は唐瘡(とうがさ)とか鼻欠けとか呼ばれたが全くこわがられてなく、むしろダンディとまで考えられていた。唐がさの一つもなければ女にもててない、といったステータスだ。そんな本来、性におおらかな国民性が日本人のDNAと思うと、最近はやっと先祖返りし始めたのだろうか(笑)
 
 実は梅毒は最初の大流行した16世紀から100年ほど経つと弱毒化し始め、現在もそうだが、進行性脳麻痺までの毒性は少なく、鼻がかけたり、全身ただれるなどの重症な梅毒は江戸時代では少なかった。
 粋な男の勲章である花柳病ともてはやされた(?)くらいだ。

 インフルエンザもスペイン風邪の時は猛烈な死者を出したが、その内毒性が低くなり、少々つらい風邪くらいに移行していったのに似ている。
 

 水ぼうそうが軽い症状だからといって、ワクチンを普及させないというのはお門違いとしかいいようがないが。うつされてから、騒いでも遅いのだ。皆さんも一度かかったら二度と治らないと聞いたらワクチン打つ気になったでしょう?
 

 幕末以降、諸外国の来日者が日本上陸後に当然のように遊郭に通い(これは各国人種問わず男なら長い航海のあとはしかたがないらしい、近々でもさる政党の党首も軍人は生死の狭間で慰安婦かくかく、と似たような発言でひんしゅくをかっていたが・・・)
 そこで梅毒に感染したものが多数出た。
 
 諸外国は直ちに港町の遊女の梅毒検査を要求した。日本側はびっくりした。
 そんなダンディ病でいけてる男の証拠なのになんで検査いるの?いいじゃん、べつに、死なないし、ってことらしい。そこで、のらくら検疫所を設けることをさぼった。
 あきれた諸外国からさらに猛抗議され、ついに外圧に負け遊女は検査を始めることになった。余談だがこの時の日本発の検疫所長が松本良順である。(コラム「孤高の天才」参照
 その中で性病は世界中で「破廉恥で恐ろしく不道徳な病気」の扱いと初めて日本は知った。
 

 政府は考え直し、明治の教育は江戸時代の風俗と180度反転し、女性は嫁ぐまで純潔を守れ、結婚後も不義・密通は「姦通罪」(今はなし)で重罪とし、厳しく女子を監視した。ここでも外圧で国是(?)がひっくり返されたわけだ。因みに男に不倫罪という刑事罰は今も過去もない。やれやれである。誇るべき貞淑な日本婦人、という金看板は2000年近い日本の歴史の中、わずか130年ほど前からの仮の姿であったわけだ。
 
 ともあれ、防げる感染症は手段もあることだし、しかも危ないウイルスほどワクチンは公費でやってもらいたいものである。


 =注=
 Bad Blood 1975年にニール・セダカが久々にヒットさせた楽曲のタイトルです。「恋の片道キップ」「おお、キャロル」「悲しき慕情」だの60年代はアイドルだった彼も70年代はヒットが出ず、このバッド・ブラッドが久々の全米No1ヒットになりました。バックにエルトン・ジョンが歌ってます。歌詞は「あんなウソにまみれた女とは合わないんだよ(血が合わない)」という意味で穏当なんですが、スラングでbad bloodは「梅毒」のことです。


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